「あんたら、元気でやってるかぁ?」 ~いま、ふりかえる障害者運動~ |
- 第34回国障年総会、記念シンポジウムが行われました - |
2014年6月28日(土)、14:15~16:15まで、第34回国障年総会記念シンポジウム【あんたら、元気でやってるかぁ? ~いま、ふりかえる障害者運動】が、行われました。
第一部では総会が行われましたが、去る5月29日に、昨年度まで国障年代表を務めていた大谷勉さんが亡くなりました。
大谷さんは、障害者や高齢者が暮らしやすい社会にしていくことの大切さを常々、豊中市との交渉や国障年総会の中で訴えていました。
また、昨年の7月24日には、国障年副代表であった入部香代子さんが亡くなっており、国障年としては故人2人の遺志を引き継ぎ、全ての障害当事者が当たり前に暮らせる社会を目指して、運動や活動をおこなっていかなければならないとの思いを新たにしました。
さらに大阪府に於いても、障大連の代表だった楠敏雄さんが去る2月16日に亡くなり、1970年代から始まる障害当事者運動の創生期世代の人が、相次いで他界しました。
このような悲しい空気の中で行われた総会でしたが、これを機に、障害者運動を振り返って、語ってみようという企画がなされました。
記念シンポジウムで講演されたのは、障大連(障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議)事務局の細井清和さんです。
以下、内容を要約します。
気が付けば、ずいぶん長い間障害者運動をやってきたなぁと思います。
今日は一つ、昔のことを振り返ろうと思って、おじいちゃんとして呼んでいただきました。
私(細井)は1970年代、『青い芝の会(説明は後述)』のもとで存在していた『グループ・ゴリラ』というところで、障害者のためのボランティアとして活動していました。
まだまだ制度は無く、街頭カンパやバザー、アルバイトをしながら、障害者のお宅や入所施設への訪問活動・月1回の方針会議の開催・年1回の交流行事の実施などをやっていました。
80年代になると、作業所(当時は共同作業所と言われていた)を創ろうという動きになり、作業所創りや、そこで会議を主催したりという活動を、10年ぐらいやっていました。
90年代には、のちの支援費制度の前の段階である、『全身性障害者介護人派遣事業』というのが、各自治体裁量の設置ということでスタートしたのですが、その枠で派遣されるヘルパーというのを、私もその後10年ぐらいやったわけです。
その後、2003年に支援費制度が始まり、制度が有るという時代がスタートしましたが、その後現在では、ヘルパーの派遣事業をするためのサポートや、事業所の運営が仕事になっています。
また、制度の中には、いろいろややこしいルールもあるので、それについて一つ一つ勉強していって、事業所を運営するためのサポートもしているほか、制度の動きや、新しく制度が出来た場合は、それについての情報提供をしています。
さて、先ほど、障害者のお宅への訪問活動をしていたと言いましたが、訪問に行って何をしていたかというと、先ず車いすの申請をしていました。
というのは、ずーっと家から一歩も外に出ない生活をしているので、車いすが無いのです。
だから、車いすを行政に申請して、作ってもらって外に出る、それが大目標となる時代だったのです。
「空って青いんですねぇ・・・・・」車いすの人と外出した時、そう言われたのを今でも覚えています。
当時、車いすの人が外に出るというのは、〝事件〟でした。
電車に乗ろうとしたら、「2本先の電車まで待て」と言われ、こっちは「次のに乗る」というのでケンカになる。
外食しに行ったら、入店拒否をされてそれに対してブチ切れる・・・・・、いや、ブチ切れたりしたらいけないんですけどね(笑)。
私はすごく温厚な人間だったんですけど、そんな私でもキレるしかないというのが、あの当時の状況でした。
施設への訪問活動ですが、施設内での入所者のスケジュールは、逆算して決められていました。
即ち、17時で職員が退勤するから、それまでに入所者の一日の生活が全て終わっていなかればならなかったのです。
そのため、12時に昼食を食べたらすぐに入浴。それが済んだら16時にはすぐに夕食で、17時には就寝となっていました。
しかも土日は職員が休日のため、外から施錠が掛けられて外出禁止でした。
施設内の生活は集団生活なので、集団の論理として、一人の入居者があまり外出すると、先輩入居者から怒られたり(妬みから)していました。
また、在宅でも施設でも、障害者本人を訪ねたら親や職員が応対してきて、「本人は外出したくないと言っていますので」と、すぐに嘘って判るような断り方をしてきたこともありました(笑)。
そういう時はこっちも思わず捨て台詞で、「また来るぞ~!」とか言って帰って行ったりしました(笑)。
ところで、青い芝の会というのは、かつて入部香代子さんも所属していた、脳性麻痺の人たちの集まり(運動体)です。
70年代、まだ障害者は、介護に疲れた親から殺されても仕方がない、というような世間からの見方もされていました。
親が障害を持つ我が子を殺しても、どちらかといえば殺した親のほうが、「追いつめられていたんやし」と同情される向きがあったのです。
これに対して、言わば『殺される側』になる重度の障害者は、
「まるで自分たちの命の価値を減らすような考え方は絶対に許されない。殺した親には、障害のない人を殺した場合と同等の罰を与えるべき」
と、抗議の運動を起こしました。
私は見ていて、「これは障害当事者だからこそ出来る運動。すごい運動だな」と感じました。
これが青い芝の会の運動の原点だったと思います。
ただ、こういう背景があったせいか、健常者はエラい言われ方をしたこともあったんですね。
当時私はボランティアで障害者の介護もやっていて、介護された障害者は「ありがとう」と言います。
ところがそれを聞いた他の(先輩の)障害者は、「いちいち有難うなんて言わんでもええ」と怒るんですね(笑)。
そしてある時は障害者から、「明日介護に入れるか?」と訊かれ、自分はどうしても都合が悪かったので「明日は無理です」と言ったのですが、そしたら相手にエラい怒られて、「君なぁ、障害者と共に生きる社会を目指しているのなら、あした介護入れ!」とか、何と強引な突きつけ方や!と(笑)。
まだまだ草の根の時代でしたので、今でいう『労働基準法』に照らして当時の私の所属先を見るならば、とんでもないブラック団体となるんでしょうけど(笑)。
でも、やはりいつまでも、出来る人が気持ちで限界まで頑張るというやり方ではいけないと思ったのです。
やはり制度を作って、社会的な労働として介護が位置付けられ、誰もが関われるような体制にならないといけない、と思いましたね。
そうして今では制度が、不満な点はいろいろ有りながらも出来たわけですけど、これからも、関わる人がずっと続けていける、そういう介護事業の環境でありたいと思います。
このあと、入部香代子さんの足跡を偲んで、去る2月23日に行われた偲ぶ会(香代子のガッハッハッ人生を語る会)の際に上映された、本人の活動の記録ビデオが、偲ぶ会に出席できなかった人たちのために再上映されました。
今、制度も変わり、それに伴って事業所で働く人の多くは、余裕の無い毎日を送らざるを得なくなっています。
障害者運動の草創期に活躍した世代の人たちが相次いで亡くなり、かつての運動の成果やその貴さを語り継げる人が、少なくなってきました。
さらに医療の現場に目を向けると、昨今、出生前診断が急速に普及し、『障害や疾患のある子どもがいると分かった親の相当数が、中絶を決断してしまう』という、何とも切ない、悲しい現象も起きています。
明るい内容の報告がないというのは大変残念ですが、これからも先人の遺志を忘れず、活動を続けていきたいと思います。