も く じ |
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1. 事務所移転しました 外出支援サービス利用料が変わりました 2. 特集:視覚障害者とスポーツ 〜ゴールボール〜 3. ヘルパー現任者研修報告 4. ガイドヘルパー養成講座(全身性課程)修了 5. 2005年度市民講座報告 6. 2005年度第2回自立生活プログラム講座報告 7. 自立支援法が始まりました 8. 介護保険制度が改定されました 9. どんぐりのひとりごと 10. 「おおいに語ろう」ピア対談 −第9回− 11. 地域の作業所の活動を紹介します −工房羅針盤− 12. 第4回インクルージブ教育を考えるシンポジウム報告 13. 自立支援法講義レポ 14. ぼくの日曜日 15. 癒えない傷 16. CIL豊中近況 17. さろんだより 18. サービスのご案内 19. 投稿作品・お知らせ 20. 編集後記 |
事務局 広報誌編集部 ヘルパーステーション ヘルパーステーション 事務局 事務局 事務局 事務局 どんぐり 広報誌編集部 広報誌編集部 上田哲郎 事務局 海帰優人 寺島隆 事務局 事務局 事務局 一辺田正/あい/逢夢(あいむ)/北摂の兄貴/岩国久美子 ねやたろー |
印刷版の表紙 |
■■■事務所移転しました■■■
ヘルパーステーションCIL豊中及びケアプランセンターCIL豊中は、4月17日に移転しました。同じルシオーレB棟の2階です(旧事務所は3階)。
なお、ルシオーレ2階では、ショッピングセンターのあるA棟と、事務所のあるB棟の間がつながっておりませんので、車いすで来られる方は、3階または1階から、B棟のエレベーターをご利用いただくことになります。ご不便をおかけしますが、ご了承願います。
豊中市障害者自立支援センターは、今まで通りの場所(3階)にあります。
今後とも、よろしくお願い致します。
《新住所》
〒560−0033
大阪府豊中市蛍池中町2−3−1−202
※電話・FAX番号、メールアドレスは
変更ありません。
■■障害者外出支援サービスの利用料が変わりました■■
新利用料 | |
初乗り〜4km未満 | 300円 |
4km以上8km未満 | 500円 |
8km以上12km未満 | 1,000円 |
12km以上16km未満 | 1,500円 |
16km以上20km未満 | 2,000円 |
20km以上 | 2,500円 |
豊中市から委託を受けて実施しています、豊中市障害者外出支援サービスが、4月より福祉有償運送(道路運送法第80条許可)によるサービスになりました。
これにもとづき、4月1日から利用料が「市内市外制」から「距離制」に変更になりました(左記表を参照)。
※同じ目的地であっても交通事情により運行距離数が変わり、結果的に利用料が異なる場合があることをあらかじめご了承下さい。
はじめに
5月〜6月といえば、夏に向けて気分も開放的になり、スポーツを楽しみたくなる季節です。障害者自立支援法が始まり、絶望的な、落ち込む気分になる一方である今日この頃、たまには制度のことを忘れて、何か違うことを特集したいと、スポーツの特集を企画しました。今回取り上げるのは、視覚障害者のスポーツとして、いま徐々に認知されつつある、『ゴールボール』です。みなさんはゴールボールというのをご存知ですか?
車いすの人が行うスポーツに比べると、視覚障害者が行うスポーツというのは、まだ多いとは言えず、関係者たちも、PRの方法を模索しています。そこで今回、ゴールボールを実際にプレーをされている長瀧丈和さんと、コーチをされている石井広行さんにご協力いただき、ゴールボールを取材させて頂くことにしました。取材に先立ち、実際にプレーも体験させていただいたので、その感想も併せてお伝えしたいと思います。
1.競技の説明とルール
ゴールボールの、ディフェンスのプレーヤーたち。 アイシェードをして、音を頼りにゴールを守ります。 |
ゴールボールは、アイシェード(目隠し)を着けた1チーム3名の選手が、バレーボールコートと同じ長さ18メートル、幅9メートルの長方形のコート(次ページの図を参照)内で、鈴の入ったボールを転がすように投球し合います。ボールに入っている鈴の音を頼りに味方のゴールを防御しながら、相手ゴールにボールを入れることにより得点し、一定時間内の得点の多少により勝敗を決定する競技です。以下、ルールを説明します。
・選手全員が、アイシェード(目隠し)をつけます
先ほども述べましたが、選手は試合中、弱視や全盲の選手が同条件で闘えるよう、スキーゴーグルタイプで完全に見えないアイシェードを着けます。
これがボールです。ズシッと重たいですよ。 |
・ボールは
男子・女子ともに重さ1.25sの鈴入りのボールが使用されます。ボールの円周は、76pで直径1pの穴が8ヶ所あいている、硬いゴム製のものが使用されています。
・コートは音源が聞き取れて、静かさを保てるよう、配慮されます。
また、コート内は、センターラインを挟んで3つのエリアに分けられ、マーキングは、幅5pではっきり見えるように引かれており、選手が触れることによって簡単に認知できるようテープの下に太さ3oのひもを通しています。
■コートの図
・試合時間
正規時間(レギュラータイム)は前後半10分ハーフ、ハーフタイム3分で、正規時間内で同点の場合は延長戦となり、延長戦で勝敗が決定しない場合はフリースローとなります。
・反則や違反
投球されたボールが相手側のチームエリアに届かなかった場合(ショートボール)や一人のプレーヤーが連続して3回以上投げた(転がした)場合(サードタイムスロー)は、反則(ペナルティー)になり、相手側にペナルティースローが与えられます。またレフェリーのコールがないうちに投球をした場合(プリマチュアスロー)や、ゲーム中に味方にパスしたボールがコート外へ出た場合(パスアウト)もファールなり、相手チームにボール所有権が移ります。
2.ゴールボールの奥義
ゴールボールは、一見すると単純なスポーツにみえますが、実際には細かい作戦や駆け引きがあり、なかなか奥が深いものがあります。一番よく使われる作戦は、足音を消す≠ニいうものです。完全に消すことはもちろん出来ませんが、足音を散らして<fィフェンスとなっている相手チームにフェイントをかけるのです。私がプレーをした時、本物のプレーヤーはみんな、ボールを投げる前に大きく回転していました。この“回転投げ”について、私は最初、ボールのスピードをつけることだけが目的だと思っていました。しかし実際は、単にボールのスピードのためだけではなく、回転をすることで足音やそれによる振動が少なくなり、なおかつ音が多方向に広がるために、足音でボールがどちらに飛んでくるか判断しなければならないディフェンスを、惑わすことができます。むしろこの“音のフェイント”をかけることが、回転投げをする一番の理由だといいます。さらにもう一つの理由として、回転をする中で、一瞬ボールがディフェンスから見て体の後ろ側に隠れる格好になるため、これによってボールを投げる瞬間の鈴の音(ボールの中で鳴る音)を体で遮り、ディフェンスの判断を遅らせる効果がある、というのがあります。
見えない状態でプレーをするということは、聴覚レベルでの駆け引きが勝敗を分けることになり、文字通り『目では見えない』作戦が、一つ一つの動きに込められているのです。
3.アイシェードをしたほうが怖くない?!
先ほど、ルールの説明のところでも述べましたが、ゴールボールをする選手は、全員アイシェードを着けて、完全に見えない状態にします。筆者は今回、何ゲームかプレーを体験しました。ただ、アイシェードは着けず、見える状態のまま体験し、ディフェンスをやる際には、飛んできた(転がってきた)ボールを、立ったまま足の裏やかかとで受け止めました。やってみてつくづく感じたことは、とにかくボールが速いっ!≠ニいうこと。本当に目にも止まらぬ速さで、受け止めた時は足の裏にシビレが走って、「痛ぁ〜・・・・」という感じでした。
「こんなに速いボールなら、アイシェードを着けてディフェンスをしたら、さぞかし怖いことだろう。生まれつき見えない人はいいが、最初に目でボールのスピードを確認してからアイシェードをした場合は、恐怖心を克服するのが相当大変だろうなぁ。」と、思ったものでした。
今回取材に協力して下さった長瀧丈和さんは、網膜色素変性症で、徐々に見えなくなってきていますが、左は10度ほどの視野であるものの、視力は0.4あるということです。従って、最初はボールのスピードを“目で見て”体験したわけですが、長瀧さんいわく、
「意外と、見えていない状態でのディフェンスのほうが楽です。」
理由は、見えていると音だけに集中出来ず、神経が視覚と聴覚に分散してしまうというのと、なまじ目で見ると考えて≠オまい、そのため体が俊敏に反応しなくなって、判断に一瞬の遅れが生じるからです。全く見えていないほうが、純粋に体だけに反応を任せられるので、心理的にはかえって楽だということです。長瀧さんは、最初は速いボールに対する恐怖心があったのが、アイシェードを着けることで、それが無くなっていったといいます。
いざ投球!矢のような回転投げは、 見ていて魅了されます。 |
ディフェンス、取ったぁ〜。可能な限り体を横倒しにし、手で、お腹で、足で、 文字通り体を張ってボールをキャッチします。見応えがありました。 |
4.ゴールボールの歴史
ここで簡単に、歴史について触れたいと思います。
ゴールボールは、もともとは第二次世界大戦で目を負傷した軍人のための、リハビリテーションプログラムの一つとして考案されたのが始まりで、最初の考案者は一人のドイツ人と、一人のオーストリア人した。1946年にリハビリ用競技として紹介され、76年にカナダで行われたパラリンピックにおいて種目として採用、その2年後にはオーストリアでワールドチャンピオンシップが開催され、ゴールボールがスポーツとして広まっていきました。
日本では82年に、デンマークのスポーツコンサルタントによって紹介されたのが始まりですが、本格的に普及したのは、92年に日本身体障害者スポーツ協会によって全国的に紹介されて以降で、94年、日本ゴールボール協会が発足しました。障害者のスポーツは、そのほとんどが、戦争(特に第二次世界大戦)で負傷した軍人のリハビリをルーツとしています。
5.長瀧さんとゴールボールとの出会い・・・・・それがもたらした変化
笑顔が爽やかなお二方。 プレーヤーの長瀧丈和さん(左)と、コーチの石井広行さん(右)。 |
長瀧さんはもともと京都に友達が多く、京都で行われているブラインドソフトボール(視覚障害者がプレーする野球)に参加していました。そのとき、仲間にゴールボールをやっている人がいて、その人から「やってみないか。」と誘われたのが、ゴールボールをやり始めたきっかけだということです。今から4年ほど前で、京都と大阪で練習をしていたのですが、現在は仕事の事情で活動を休止しているそうです。そして大阪のコーチである石井さんとともに所属しているチームの名前は、『ビクトリーサンダー』といいます。
ゴールボールを始めたのをきっかけに、外に出る機会は増え、より活動的な人間になれました。そして何と言っても聴覚の神経が抜群に発達し、日常生活でも、ちょっとした音の振動の違いを聞き分けられるようになったといいます。
6.これからの課題
ゴールボールでは、ほかの球技に比べるとかなり大きなゴールが使われるのが特徴ですが、このゴールは、現在大阪府下では3つしかありません。その内の1つが、豊中市の障害福祉センター・ひまわりにあり、このひまわりのゴールが、3つあるゴールの中でもただ一つ、身近に使えるゴールということで、そういう意味では豊中には、ゴールボールを広めるための貴重な資源が存在していることになります。今後はそれを活用して、視覚障害という枠に捕らわれず、誰もが楽しめる市民スポーツとして広めたいと思っています。ゴールボールは、パラリンピックの種目にはなりましたが、まだまだ認知度としては低いのが現状なので、まずはその面白さや楽しさをどんどん伝えていきたいと、意欲を燃やしていました。現在、小学校にも
仕事の後の時間を利用して行われる、練習のようす。 筆者がプレーを体験したのは、このときです。 |
どんどん赴いていってゴールボールを紹介するとともに、試合があれば招いたりもしています。そして試合中の空き時間には、子ども同士でもプレーをやってもらっているということで、子どもたちにもどんどん興味を持ってもらって、そこから広まっていけばいいですね。
もう一つの課題は、練習に集まれる人が少ないことです。チームのメンバーは仕事を持っている人が多く、練習に行きたくても、仕事の時間と重なってなかなか行けません。学生もいますが、やはり学校のサークルなどを優先させなくてはならないという事情があります。その結果、非常に集まりが悪くなり、良い練習が出来ないのです。この課題はしかし、日本でスポーツをしている人の多くが抱えている共通のものと言えます。内容よりも、まずは人数そのものを充実させなくてはならないというのは、なかなか切ない話ですが、やはり仕事や学業とプレーを両立させようと思ったら、職場や学校に、それなりの理解を求めなくてはなりません。理想的な練習環境をいかに確保するか、なかなか現実は厳しいものがあります。
7.公式試合を見学
4月30日に、障害福祉センター・ひまわりにて、日本ゴールボール協会共催による、『2006大阪ゴールボール大会』が開催されました。筆者は当日試合を観に行きましたが、同時に得点係やタイムキーパーを担当し、自らも競技の一員となっていました。あまりルールにも詳しくない中、不安もありましたが、よく分かっている人も一緒に担当になっていましたので、その人に横で教えてもらいながら、何とか最後まで役割を果たすことが出来ました。通常、スポーツの試合というのは、観客側と競技運営側はハッキリと分かれているものですが、ゴールボールでは、観客も競技を進行させる一員となって、観るだけではなく、一緒に参加していくのです。ルールを知らなくても、横で教えてくれるベテランスタッフがいるので、素人でも務めることが出来ます。こうして役割を持つことで、より一体感を味わえ、一緒に試合を盛り上げるという成果が出るのではないでしょうか?試合も、間近で観ると迫力が全然違いました。激しい投げと体当たりによる守りの応酬。選手の個性もそれぞれに豊かで、大いに堪能できました。
『2006大阪ゴールボール大会』試合全景 |
これが試合当日の筆者の担当。左が時刻・得点表示機。右がタイマーとタイムリミットを告げるブザーです。 |
おわりに −今後の展望へ向けて−
以上、ゴールボールについての特集をお伝えしました。
私はゴールボールが、目が見えないという障害を持っていることで、家に閉じこもりがちになっている人が、外に出て行くきっかけになればいいな、と思っています。この競技の一つの魅力は、観客も希望すれば気楽に、タイムキーパーや得点係、それに球拾いなど、競技を進めるための行程に参加できるところにあると思います。
今後、より身近で、より親しめるスポーツになることを祈念して、この特集を終わりたいと思います。取材にご協力下さった長瀧さんと石井さん、本当に有難うございました。
なお、7月29日(土)〜30日(日)に、『2006西日本ゴールボール大会(男子)』が、京都市障害者スポーツセンターで開催されます。詳しくは『日本ゴールボール協会』のホームページでも公開されています。
(担当:根箭)
去る2月18日、19日、25日の3日間、ガイドヘルパー養成研修が開催されました。
初日には事故防止やガイドヘルパーの制度・業務、車いすについての講義が行われ受講生は熱心に受講していました。
2日目は移乗の方法や車いすの移動の介助などの実習が行われ、受講生同士がモデルになって安全な介護の方法について真剣に取り組んでいました。
3日目の公共交通機関を利用しての演習では、阪急電車に乗り川西能勢口へ出かけました。車いすで電車に乗るのは初めてだったり、街の中を実際に歩くと目線の低さに驚く受講生もいました。実際の外出介護を想定しての演習ということで皆さん緊張しつつも無事終了しました。
今回は総勢17名の方が受講されました。皆さんの今後のガイドヘルパーとしての活躍を期待しています。皆さんお疲れ様でした。
(川崎)
車いすや、ガイドヘルプについての講義 | 公共交通機関を利用しての演習。 | いすから車いすへの移乗の実習。 |
横須賀俊司さん |
2005年度の市民講座を2月5日に障害福祉センターひまわりで行いました。
昨年10月31日に国会で可決された「障害者自立支援法」をベースにした、障害者の地域生活のあり方や、これからの課題、そして、豊中市においての準備状況などを中心にした学習会で、市内、他市合わせて80人以上の方が来られました。
この日には、頸髄損傷の当事者で県立広島大学の助教授をされいている横須賀俊司さんに講師として来て頂きました。
横須賀さんは数年前まで西宮市のメインストリーム協会でスタッフをされていて、障害者福祉論を学生に伝えるため関西だけではなく、鳥取、広島などで教壇に立つ傍ら自分の経験や研究を本にして出版されています。また、障害者自立支援法に関しては、フジテレビのニュースジャパンで意見を言われている映像が全国に流れています。
講演の冒頭で横須賀さんは、「国には、本当はお金があるんです・・・。イラク復興支援や防衛費などには多額の予算を使っている。決してイラクの復興支援が必要ないとは言わないが、本当にお金が無いのなら、他国の復興や必要もない防衛費に多額の予算を注ぎ込んでいる。国は福祉にお金をまわしたがらない、力関係で予算の分配が決まっている」と声を大きくして、お話をされていました。
会場のようす |
また、自立支援法の骨格の説明やこの法律によって、障害者の生活が過去に戻ってしまう。支援費制度でホームヘルパーやガイドヘルパーが使えるようになった人たちもこの法律によって、位置づけられた負担によって、制度を使うのを控えるようになるかもしれない。また、3年後には介護保険との統合がこの法律によって明らかになり、そうなれば障害者の地域生活が危うくなってくることを切々とお話をされていました。
横須賀さんは「自立支援法によって、制度の地域格差をなくすと国が言っているがそれは無理で、より一層格差が大きくなる。それをしないようにするには、国や都道府県、市町村がやっている審査会や検討委員会に障害者が参画していかなければならない、今、行っている障害者のことをテーマにした会議などには、ほとんど当事者は入っていないし、入れてと言っても入れてもらえない。例えば、鳥取県で障害者福祉を考える会議に学識経験者として参加したいと言ったが
吉田実主幹 |
『おまえは障害者だからだめだ』と言われた。自立支援法のなかで認定調査や区分を決める時に論議する区分審査会が重要で、そこに当事者が入っていくことが必要である。でもそれをしている市町村は極わずかです」と言われて、障害者が多くの場面で参画していくことがこれからの地域福祉にとって必要不可欠だと感じました。
次に豊中市障害福祉課の吉田 実さんより、自立支援法における豊中市の準備状況や法律施行後の豊中市の障害者市民に対して、制度やサービスをどう展開していくのかを限られた時間内でお話しをして頂きました。時間がなく、かなり早口になってしまったなかで、「豊中市として、サービス支給の目標数値を18年度中に出し、障害者市民が安心して暮らせるサービス体系を作っていきたい。」と言われてました。また、「これからも何か知りたいこと、不安なことがあれば、極力そこに出向いていきお話しをしていきたい。」と力強く言われて、豊中市の姿勢が当事者や家族などの方に向いていることが再認識することができました。
4月より自立支援法が始まり、10月より本格的に稼働していきます。私たちは、私たちのまわりで、何が起こっているのか、それが自分たちの生活にどう影響していくのかを認識し、この状況に立ち向かって行かなくてはなりません。
CIL豊中では、障害者自立支援法によって、制度やサービスがどう変わっていくのかなどを皆さんにお知らせするために広報誌への掲載や市民講座の開催などを繰り広げていきたいと考えています。また、不安な点などがあれば、事務所に問い合わせてください。お答えができるようにしておきます
参加者からの質問に回答していた両講師 |
(大友)
「チャレンジ・・・」
みなさんは将来の自立生活に不安を覚えたとこはありませんか?おそらく誰もが少なくとも一度は不安を覚えるものだと思います。そこで今回の自立生活プログラム講座はそんな不安を少しでも和らげ、将来の自立生活の自信につなげていってもらえるように「チャレンジ・・・」というテーマで、知的障害がある人を対象に、5回の講座でプログラムを作りました。
◆内 容◆
1回目−実際に豊中で自立生活している話を聞いて質問しよう。
2回目−どんな家があるか見に行こう
3回目−何が必要か考えてみよう
4回目−目標を実行する
5回目−今までの講座を振り返ってこれからの目標を考える
◆参加者◆
「CIL豊中のサロンに参加していて、この講座の企画を聞いて参加してみました。生活するにはどんな物が必要か考えてみたい。」
(絵里香 20歳代 女性)
「CIL豊中に勤めている知り合いの方から講座の企画を聞き、参加を決めました。」
(青木 20歳代 男性)
さてどのような講座になったのでしょう・・・・・?期待と不安の中一回目の講座は豊中市内で自立生活を送られてるゆうこりん≠ウんに来てもらい話を聞きました。
ゆうこりんさんは親元を離れ自立生活を送る楽しさ(自分で好きな時間に外出したりすることができること)など話していました。反対に病気になったときなどの大変さなども話されてました。
受講生二人ともとても真剣に話を聞いていました。
2回目以降は、当事務所のILPルームを見学したり、ゆうこりんさんの自宅や、当事務所スタッフのTODOさんの自宅に見学に行き、実際にリフトに乗ってベットへの移動を体験したりしました。
さてお二人は実際の自立生活を送るにあたって何が必要と感じたのでしょうか・・・。
◆目 標◆
「生活するにはいろんな家具などが必要なので、お店に行き値段を調べてみたい。特に冷蔵庫の値段を調べてみたい。」(絵里香)
「同じく家具や冷蔵庫の値段を調べてみたい。」(青木)
◆感 想◆
「いつもCILはありがとうございました。僕はいろいろな上田さんはとてもうれしかった。でも大友さんはとてもうれしかった。大友さんの家を見てきました。とてもきれいでした。かじくんはいろんな話をしてました。ほんとうにおもしろかった。潮崎さんほんとうにありがとう。また声をかけてください。」
(青木)
「五日間CILの講座をうけてみてすごく楽しかったし今は、はびきので一人ぐらしをしてる姉みたいに自立したいと思いました。本当にとても楽しかった。」
(絵里香)
*なお、この感想文は、原文のまま掲載しています。
今回のプログラムは受講者が少なくすこし寂しいかった面もありますが、二人にとっては自立生活の先輩の話を聞いたり実際にリフトを体験してみたり家具などにふれてみたりと初めてとなる貴重な体験が多かったと思います。この経験をこれからの生活にいかしていってもらえたらと思います。
ILP講座の最後に行われたパーティーのようす。 手前が絵里香ちゃん。一番奥が青木君です。 |
(鍛治)
4月1日から障害者自立支援法が始まりました。大変問題の多い制度であることはこれまでのCIL豊中通信でも繰り返し述べられていた通りです。障害者自立支援法は大きく分けて4月と10月の2段階で施行されます。4月は原則1割負担が開始され、10月からはサービスの種類や内容が変わります。
また、10月からのサービスに向けて4月から9月末までの間に障害程度区分の認定等新しい支給決定の仕組みが順次開始されます。障害程度区分は1〜6まで6段階あり、これにより10月から受けられるサービスの種類(重度訪問介護は4以上、行動援護は3以上、ケアホームは2以上等)が決まったり、支給量の目安になったりと大変重要なものになります。
この広報誌がでる5月末には4月サービス利用分の負担金の支払いがあり、負担増が現実的に実感されていることだと思います。そこで、改めて負担の仕組みについて確認しておきたいと思います。
【障害者自立支援法の負担の仕組み】
サービス費用の1割と施設での食費・光熱水費等の実費負担が原則。
しかし、低所得の人には、負担が大きくならないように色々な負担軽減の仕組みがあります。
■1割負担金が大きくならないように軽減する仕組み。
<全サービスに共通する1割負担に対する軽減>
○1か月の負担上限額
・市町村民税課税世帯:37,200円
市町村民税が課税の世帯。
・低所得2世帯:24,600円
市町村民税が課税の世帯で、低所得1以外の人。
・低所得1世帯:15,000円
市町村民税が課税の世帯で、障害者の収入が年間80万円の以下の人。
・生活保護世帯:0円
※世帯の範囲は住民票が別だと別世帯になります。また、扶養に入れていなければ別世帯になります。
○高額福祉サービス費
同じ世帯で複数の人が障害サービスを受けたり、介護保険サービス+障害サービスを受けた場合、それぞれ上限額まで負担するのではなく、全て合わせて上 記の上限額とする。
○負担によって生活保護にならないように、最高0円まで負担を下げる。
<サービスに応じた1割負担に対する軽減>
○個別減免
グループホームや施設入所の20歳以上の低所得1又は2の人で、資産がなく、預貯金が350万円以下の人には収入に応じて最高0円まで負担を軽減。
○社会福祉法人等減免(4月現在、豊中市では市立のサービスのみ実施)
ホームヘルプ、デイサービス、通所施設、施設入所の20歳未満の低所得1又は2の人で、資産がなく、収入や預貯金が一定額以下の場合、負担上限額の半分を超える分が軽減される。
■実費負担を軽減する仕組み。
○補足給付
施設入所の20歳以上(20歳未満は一般世帯も対象)の生活保護又は低所得1及び2の人の食費・光熱水費の実費負担を軽減。
○通所施設等の食費負担の軽減
通所施設、デイサービス、ショートステイを利用する生活保護又は低所得1及び2の人は食費負担を軽減。
負担軽減は申請に基づいて行われます。負担軽減の対象になると思われるのになっていない人や、詳しく知りたい人は、市町村の障害福祉課に相談されることをお勧めします。
(徳山)
☆ ポイント1
認定区分は今までの6段階から7段階に変わり、今までの要介護1が要支援2と要介護1に分かれます。要介護1のうち「状態の維持・改善の可能性」のある方が、要支援2(新設)に認定されることになります。
☆ ポイント2
今までの認定調査では心身の状況や活動の状況を調査する項目が79項目設けられていました。今回「日中の生活」「外出頻度」「家族・居住環境・社会参加の状況などの変化」の3項目が加わり、82項目となります。
☆ ポイント3
要支援1・2の方を対象に、状態が悪化しないような生活機能・向上を目的としたサービスが介護予防サービスです。原則としてこれまでのケアマネージャーにかわって地域包括支援センターが介護予防ケアマネジメントを行い、介護予防ケアプランにそったサービスが提供されるしくみです。
☆ ポイント4
地域包括支援センターは高齢者が住み慣れた地域で生活していく為に介護だけでなく、医療や財産管理、虐待防止など様々な問題に対し、地域において総合的なマネジメントを担い、支援していく中核機関です。専門職をその機関ごとに配置するといった特徴があります。
・保健師→介護予防サービスの利用に関する業務にあたります。利用者の心身の状態を判断、希望を聞きながら個別に目標や介護予防プランを作成します。
・社会福祉士→総合的な相談窓口として地域高齢者の実態把握や、虐待への対応など権利擁護問題の相談にあたります。病院・弁護士・ボランティア団体などを紹介したり、連携して問題解決を図ります。
・主任ケアマネ→スーパーバイザーとして支援困難事例などで、民間のケアマネが孤立しないように指導や助言を行います。また、市町村や関係機関との調整などのバックアップを行います。
☆ ポイント5
65歳の方に対して、基本健康診査を行い、介護予防が必要な対象者(特定高齢者)を選び出し(スクリーニング)ます。スクリーニングの結果、特定高齢者に認定されると、地域包括支援センターで介護予防ケアプランの作成を行い、地域支援事業による通所型・訪問型介護予防事業を利用することが出来るようになります。
☆ ポイント6
40歳から64歳の方が利用できる特定疾病の中に、末期ガンもふくまれる事になりました。
(津村)
どんぐり、それは私の小学生の時のあだ名である。なぜ、こんなあだ名がついたかと言えば、よくころころとこけていたからかなと、大人になって思う。
春だから、何か始めたい、と思っていた。編集会議でページが空いたと聞いて、ついうれしくなってきて、手をあげてしまう。まるで子どものように・・・・・。「あんたは、小学生か?」と言われそうだけど。ま、ええやん・・・、子どものような心でつれづれに書いてみたい。
◆いまどきの小学校って、クラスに学級委員は、いないのね。
私は、一児の母である。子どもは、年々大きくなり、今では抱っこもおんぶもできない。ちょっとさびしいな。でも心も体も成長してくれた分、頼もしい。
いよいよ高学年、学校では学校の中心学年としていろいろな役割や責任を担わされる。
昔、なんか、児童会の会長や各クラスに学級委員がいてたような・・・、クラスの、勉強が良くできて少し人気者の子がなっていたように思うのだが、古い話だからはっきり覚えていない。(皆様のところでは、どうでしたか?)
今の学校は違うみたい。学校全体としては、運営委員会、集会委員会、放送委員会、飼育委員会、などなど、自分のやりたい委員になれるようだ。クラスでは、何班かに班に分け、班長、副班長に立候補するようだ。それも少ない人数の中、学期ごとに変わるようだから、みんなが班長、副班長になれる。そしていろいろな係りの仕事もある。と、いうことは、みんなが役割を二つ以上持って平等になるということだ。
子どもの話を聞きながら、一人一人の長所を引っ張り出し、平等に育ててくださるのだなと、改めて思った。これって、ゆとりの時代の一環なのだろうか?
でも、その一方では学力の低下が危惧され、学力の水準を上げ、優秀な人材を育てて行かなければならないことが叫ばれている。学習塾、家庭教師の宣伝チラシ、勧誘電話が後を絶たない。高学年になるとほとんどの子が学習塾に通うと聞くとのんびりしている親の私でも、一度は行かせてみようかなと、思ってしまうくらいである。子どもの一言「そんなん行かへん」といわれて、あっさり私の気持ちも終わってしまう。(要は、学校で教わる基礎なのだから・・)
そうだよね。人は人、自分は自分でいいんですよね。自分であるより他にしかたがないのだから、自分を大切にして、好きな方面に向かっていければいいのではないかと思ったりしている。今度こそは、子どものことを離れて、一人の人として文章を書いてみたいと思っていたのだけど、最初から、失敗に終わってしまっている。ま、ええかー。
今回は、当センターのピアカウンセラーである大友さんが、昨年めでたく五十路を迎えられたということで、特別に(?)ピア対談に登場致しました。そしてもうひとかたは、こちらも昨年五十路となりました、英(えい)ちゃん≠アと城井英治さんです。
司会: 「大友さんは、もうみなさんよく知っているところだと思うので簡単に、そして今日の対談のために来て下さいました城井さん、自己紹介をよろしくお願いします。」
大友: 「僕はいちおう障害だけ言っておくと、脳性麻痺と頸椎損傷のダブルになります。」
城井: 「名前は城井英治、昭和30年4月生まれ。障害は脳性麻痺で、正確には脳源性機能障害っていいます。今は、NPO法人関西教育福祉サポートセンターに所属していて、児童ピアカウンセラーをやっています。それと小学校とかに行って、障害者の生活について自主講演をしています。よろしくお願いします。」
司会: 「児童ピアカウンセラーというのは、どんな感じの仕事になるのでしょう?普段は関西教育福祉サポートセンターで待機されているわけですか?」
城井: 「いや、サポートセンターに児童ピアカンとして登録して、依頼があれば現場に派遣される。現場というのは学校で、いろいろな学校を回るときもある。普段は家で待機していて、依頼がきて僕が行けないときは、センターに登録している他の人が、現場に行ってくれる。」
城井英治さん |
☆よう生きてこれたよな〜
司会: 「さて、今回は『五十路対談』ということで来ていただきましたが、お二人それぞれ、重度の障害がある中で、この年齢まで生きてきて、何か特に感じることありますか?」
城井: 「よう生きてこれたなぁって思うよなあ。何やかんや言っても。」
大友: 「同じくやね。大きな病気もせず、体も丈夫でここまでこれたから。一度危なかったのは、高校2年の時に野球をしていてケガをして、首を激しく痛めたときだね。1年半〜2年ぐらい寝たきりの生活になって、おしっこもなかなか出なくて、よく救急車で病院に運ばれていた。ケガの影響で、カテーテルを使わないと自力でおしっこが出来なくなっていたんだね。そのとき以外はアッという間で、年齢とともに時間もどんどんはやく経つという・・・・・。」
城井: 「7年ぐらい前、僕も首の手術をやったことがあったな。二次障害が出て。それまでは家の中では歩き回っていたのに、ある朝突然、体の動きがピタッと止まって。」
大友: 「あの時僕が聞いたのは、朝のヘルパーさんが来たのに玄関まで出られなくて、やっとの思いで玄関にたどり着いて鍵を開けたと。ベッドから玄関まで、3時間かかったんだよね。」
城井: 「そう。僕がずっと声を出し続けるという形で合図を送ってたから、ヘルパーさんもその3時間のあいだ、ずっとドアの外で待ってくれてた。」
司会: 「大変だったんですね。前の晩寝るときは何ともなくて、翌朝起きたら急に動かなくなっていたというわけですね。本当に切実というか・・・・。」
大友: 「まあ、今思えばあれが予兆やったんだな、みたいなものは、実はあったんだろうとは思うんだけどね。なかなかそのときは気が付かないものでね。」
☆昔は走り回っとったんや〜
司会: 「お二人とも、ケガや二次障害が起こる前は、体の状況は違っていたわけですよね。五十路になったら電動車いすのベテランになってたけど、元は歩いていたのですか?」
城井: 「子どものころは走り回っとったで。」
司会: 「松葉杖か何か、使っておられたのですか?」
城井: 「いいや、何もなしで。でも大人になってから、あるとき「これ以上歩いたら無理がかかるからダメ。」とドクターストップがかかって、それ以来車いすになった。理学療法士さんに頼み込んで電動を造ってもらったんだけど、それに乗りながら、『あ〜あ、走りたいな〜。でも、しゃーないなー。』と思ってた。」
大友: 「僕は7歳から豊中に住んでるけど、あの当時の豊中ってホント田舎やったからな。僕もドーッと走ってたんだけど、うっかり野壺にはまったりもした。」
城井: 「僕もそれある。子どものときは、ほかの子とケンカもよくやってたな。」
司会: 「ああそうですか。実は私は今まで、昔になればなるほど、それこそお二人が子どもの頃とかは、障害者が外に出ているという光景は全く見られなくて、国障年の頃からようやく地域に出るようになった、というイメージを持っていたのですけど。」
大友: 「いやいや、そんなことない。当時は今ほど障害者を特別視していなかったよ。子ども同士でおったら全然関係無かったし、そもそも統合教育という考え方も無かったからね。」
☆ところで、お二人の出会いというのは・・・・?
大友: 「僕ら自身は、出会ってからそんなに長くないんだよね。むしろ僕らの母親同士の関係が長いよ。英ちゃんのお母さんが肢体不自由者父母の会の役員をしていて、その関係でうちにも訪ねてきてたから。僕は養護学校に通ってて、英ちゃんは地域の学校に通ってたから、会うこともなかったし。それが・・・・・、何年前やったかな?出会ったのは。」
城井: 「20年近く前やな。わたぼしコンサートがあったときやから。」
大友: 「障害者が歌詞を書いて、それを奈良にある『たんぽぽの家』というボランティア団体の人が、曲を作って歌うという、わたぼしコンサートというのがあったんだけど、それの実行委員会が大阪ボランティア協会の中にあったんよ。で、そのとき僕もボラ協で仕事してたから、そこで英ちゃんと出会った。以前から母親づてで名前は聞いたことがあったから、パッと顔を見て、『これが城井英治かぁ。』と思ったよ(笑)。」
司会: 「城井さんは、大友さんを初めて見たときの第一印象は?」
大友: 「『うわ〜、カッコいいのがおるな〜』・・・・・。」
司会: 「いやちょっと待った。自分で言ったらダメでしょう(笑&怒)?」
☆出会いと言えば、『人生を変えた出会い』ってありますか?
大友: 「僕の人生の転機となった出会いは3つあるんです。一つは小学校のときの先生で、まあ障害者やからかどうかは分からないけど、友達に泣かされたこともあったんよね。そのときある先生から、「障害者は健常者に、力では負けるけど頭では勝てる」としきりに言われました。すごく心強くなる一言だったね。二つ目は高校生時代、ケガをして入院しているとき、一冊の本と出会って、それは牧口一二さんが書いた『われは何を掴むか』という本だったんだけど、それは地域で暮らしている障害者が書いた文章を、牧口さんが集めて編集した本だったんよ。それまで僕は地域での生活を知らなかったから、読んで初めて、「ああ、こんな生き方もあるねんな」と。のちに大阪ボラ協で本人にお会いしたとき、「あの本の牧口さんだ!」と思ったもんですよ。そして三つ目は僕を豊中での活動に導いてくれた人で、入部香代子さん。入部さんが最初に選挙に立候補したときに、「これからも豊中で暮らすんやったら、一緒に動いてくれないか?」と言われて、それが豊中で活動を始めるきっかけになった。」
司会: 「豊中で活動するというのは、具体的にはこの団体を立ち上げることですか?」
大友: 「それもあるね。入部さんの選挙での活動が、この団体を立ち上げる土台となった。」
城井: 「僕は17歳のとき、親父が亡くなって、そのとき父母の会の会長がきて、会主催のキャンプに誘われた。それがきっかけで、父母の会青年部というのができた。僕と会長とで話し合って、同じ若い年代の人がもっと集まれる場所を作ろう。家にずっといて社会との接点が少ない障害者に、もっと外に出ておいでよ、と。行事を企画して、一軒一軒訪問して声かけをしたりした。僕が中心になって、地域の同年代の人の名簿も作ってね。そしたら訪問先で、「何しに来てん?」と、追い返されたこともあった(笑)。」
大友: 「親が、『うちの子はそんな活動しないからいいです。』っていう感じやったんやね。」
☆負けん気やな
司会: 「重度の障害をもって50年生きてきた、その原動力となったものは何かありますか?」
城井: 「負けん気やな。何くそという。」
大友: 「僕も負けん気だけやな。若い頃は変に、『健常者に負けるか!』というものがあった。何かあっても、すぐまた起き上がったるわい!という。だから英ちゃんも僕も、首とか痛めても、そっからまた立ち上がることが出来たんやね。」
司会: 「さっき言われた、小学校の先生からの言葉とかは、すごい重要だった?」
大友: 「そう。あの言葉は負けん気の源になったね。」
☆僕らはもう65歳(?!)
司会: 「こういう重度の障害がある人というのは、これはあまり触れられたくないことでしょうけど、平均寿命もだいぶん短くて、加齢速度も早くなってしまうのですよね?」
大友: 「この障害は、だいたい健常者から15歳ぐらい年を取ると言われてるけど。」
お互い気の置けない仲で・・・・。 |
城井: 「僕らはもう65歳や(笑)!」
大友: 「実際に65歳になったとき、果たして生きてるかどうか・・・・・?」
城井: 「生きてるわ。」
司会: 「自分の障害を見つめる中で、『自分は何歳まで生きられるかなぁ?』とか、考えたことってあるのですか?」
城井: 「全くないわ。」
大友: 「僕も全くないなぁ。考えてもしょうがないしな。」
☆生きられるだけ生きる
司会: 「負けん気という話も先ほど出ましたけど、『何歳までは生きたるで』みたいな目標はあるのでしょうか?」
城井: 「いや〜、生きられるだけ生きるっていうだけやなあ。」
大友: 「そうやな。目標なんて立てられへんもんな〜。」
城井: 「目標は好きに生きる(笑)。」
大友: 「そうそう。それでまあ、古い話ばっかりずっと出てきたけど、昔の仲間ともう一回集まって騒ぎたいよね。同じ障害で、僕らより年上の人だってまだまだいるし。」
司会: 「これからもぼちぼち、好きに生きて下さい(笑)。有難うございました。」
(根箭)
一度病に倒れても、まだまだ働ける作業所であってほしい!!
今回は、前回のきらら作業所と同じ系列の羅針盤作業所に行ってきました。阪急曽根駅から、歩いて20分ほど。お話を伺ったのは、山河さんと宮澤さんです。
☆ここは中途障害者の作業所です
見渡す限り、大人の方ばかりなので伺ってみると、脳卒中で倒れた方や、交通事故、難病などで、身体障害、視覚障害を持った方の作業所とのこと。今までいろいろな作業所にお邪魔してきたけど、中途障害ばかりというのは、初めてではないかしら?でも障害者の中で一番多いのは中途の身体障害者で、社会に対して声があげにくい方たちでもあるのです。
ここに通う方たちは、倒れるまでは、大工や運転手、会社員、役員など、いろいろな仕事で社会の一端を担う一家の大黒柱、バリバリ仕事人間(40歳代男性)でした。女性は、家族のいる方は家事という仕事があるから、ここに来られている方は一人暮らしの女性です。
人生=仕事という仕事人間がある日倒れて障害を持ったとき、病院でのリハビリはある程度で打ち切られ失望するばかりなので、機能低下を防ぎ、生きる意欲ややる気を維持させるために、作業は極力手作業にしているとのこと。
現在登録している方は26名で、スタッフは常勤3名、非常勤2名、ボランティア1名です。
☆自分たちの手で何かを作り出したいという思いから、おせんべいと木工が誕生!!
最初は7名で内職していて、家の中にこもっていた方ばっかりだったので、たとえ内職でも仕事があればうれしいという感じだったんですが、だんだん自分たちでも何か作りたい、意欲がわいてきて、話し合いをしました。そこで生まれたのが、誰でも食べられるおせんべいだったのです。小麦粉、卵、マーガリンなどのクッキー生地を薄く焼いた素朴な手作りせんべいです。種類も、えびやオレンジなど、10種類と豊富。私も、ひとついただきましたが、オレンジの香りが、すがすがしくさわやかで素朴で温かいおいしさでしたよ。コーヒー、紅茶と一緒に食べたらおいしいと思いました。
只今、バウンドケーキも試作中とか。
元大工の方が自分の技術も活かしたい、との思いで何人かの手伝いも入って木工も始めました。注文に応じて、専門性を活かしてここにしかできないもの、大きな商品を作りたい。
自分の家の風呂の浴槽に合わせたすのこを作ってほしいという注文もあったりしています。おせんべいも木工も毎日しているわけではなく、4日やって1日は内職をしています。
☆「なかまの店」や喫茶店などで売っています
ここの商品は、豊中駅構内の「なかまの店」、池田駅構内の「とよのぴあ」などにおいていますけど、ないときもあり、電話で注文をいただければ配達します。おせんべいは、喫茶店に二ヶ所メニューの中に入れてもらっているので定期的に注文が来ます。注文が来るのを待つのみではなく、市内の小中学校、高校、幼稚園、保育園などに営業に出ています。木工作品も、雑貨などもおいてある喫茶店、ちょっとおしゃれな店で売っていて注文も来ます。「福祉施設だから、同情的に買ってもらうのでは、一度だけになってしまうし、だめです。作るからには一般企業を意識して販売していきたい。そのための戦略も皆さんで考えていきたい。ラッピングひとつにしてもセンスのあるものにしていかないと売れない。」と、山河さん。そのことが、利用者の方の心の張りにもなっているようです。
☆問題点もあるけど、夢もある
現在65歳以上の方が3名おられて、その方たちには補助金は下りない(市に交渉しても介護保険への移行を言われるだけ)。でも誰も首は切らないのです。またこの作業所は、190平方メートル。市の規定では、10平方メートルに一人の利用者ということになっていて、ここの定員は19名なので、利用者の実数は増えても補助金は出ていない状況なのです。
最後に、将来への夢をお聞きしました。当面は、工賃をあげていくために、注文を拡大していくこと。一般社会の会社では、障害を持ったら首を切られてしまうけど、これまで得た経験、知識、技術を活かしたいと、本人たちも望んでいる。たとえ障害を持っても、作業に時間はかかっても、それらを活かせる場として作業所を増やし、拡大していきたいとのことです。
ありがとうございました。どこの作業所に行ってもそうなのですが、今回特に考えさせられました。国は新しい法律を作るより前に、障害者の働く場、就労の問題を優先させて考えてほしかったと思いました。
※作業所連絡先:06-6864-8107
(つかはら)
2月4日土曜日、豊中市立福祉会館で「第4回インクルージブ教育を考えるシンポジウム」が開催されましたので、参加してきました。教職員はもちろん、親御さんや障害当事者、一般市民の方々を含め、総勢240名が来場されました。来年度本格実施される国の「特別支援教育」を控えて、今後の「障害」児教育のあり方について活発な議論が行なわれました。
過去にも何回かこのインクルージブ教育について記事を書かせて頂きましたが、簡単にインクルージブ教育を説明させて頂きます。インクルージブとは一般的に「包括的な」とか「包み込む」と訳されているようです。すなわちインクルージブ教育とは「すべての子どもが普通学級で学び、必要に応じた教育支援が受けられる制度」で、国連のサラマンカ宣言で提唱され国際的な主流になっているものです。
山田真さん |
第1部の講演では「障害」児の親御さんで小児科医でもある山田真さんが東京から来られ、お子さんとの関わりを通して文部科学省が進めようとしている特別支援教育への危惧を長時間語られ、また「障害」のある子どもが生きやすい学校こそが、どの子どもにとっても息苦しくない学校であり、これまでの学校教育の再検討が必要であると訴えられていました。
第二部でのパネルディスカッションでは、毎日新聞学芸部の遠藤哲也記者をコーディネーターに迎え、障害児・者の生活と進路を考える会の鈴木留美子さん、緑地小学校教員の小林大輔さん、摂津市立味舌小学校教員の吉岡珠生さん、府立松原高校教員の成山哲生さん、第1部での講演者である山田真さんがパネラーとして、各々の体験や取り組みを生かし、インクルージブ教育の意味やそれを進めていく為に大切にしていきたい事等を語られていました。
パネルディスカッションのようす |
鈴木さんは、息子さんが「障害」を持たれ、同じクラスの友達の存在が息子さんの成長の原動力になったと述べられていました。小林さんは、分ける事なく同じ教室で、友だちと絡んで多くの事を吸収しあい、どの子も優しく厳しくと接しながら学んでいく事が大切であると述べられていました。吉岡さんは、自身が豊中・箕面で小中を「ともに学び育ち生きよう」で育った経験から、若い仲間や新任教師に「ともに生きる」を広げていきたいと語られていました。
成山さんは、28年間準校生として知的障害のある生徒を高校に受け入れてきた経験から、これからは教職員の点数においての価値観の転換が必要であると述べられていました。
パネルディスカッションを受け、会場におられた障害当事者、親御さん、教職員からも意見が続々と出てきました。山田さんから「『障害』を持つ子も不登校の子も手をつないでこちら側からプランを出していきたい」と述べられ、その言葉に遠藤さんは「今後も誰もが排除されない教育や社会のあり方を考えていきたい」とまとめておられました。
大混雑していた会場 |
最後に毎日新聞の方があいさつで「『障害』のある人もない人も幸せになる権利がある。連帯してこの輪を広げていきたい。すべての子どもがともに育っていく場を保障していきたい」と今後の取り組みへの決意を確認し、シンポジウムは無事に終わりました。
みんなの怒りの中で・・・。
2005年10月に国会で可決した、「障害者自立支援法」(自立支援法)が2006年4月に負担の部分(利用したサービスなどの1割を利用者が負担)が始まりました。大阪障害者センターの塩見さん |
よさみ野障害者作業所の荒木さん |
海帰優人
本当にありがうございました
とある昼下がり、ぼくはいつものように「はんだ酒店」を訪れた。服部天神のすぐそばにあるそのお店には、いつの頃からか雨宿りを口実に立ち寄り、宿泊の介護者との時間調整ということで立ち寄り、もちろん、「のどが渇いたから」と言って立ち寄った。けれど、本当は「はんだ家の人たち」に元気を授かりに行くのが目的だった。
店に入ると、どの棚にも商品がまばらにしか置かれていなかった。いつものように、ニコニコしながらレジからこちらを見ているおばあちゃんに声をかけた。
「改装するんか?」ぼくの問いかけに、おばあちゃんは一瞬表情を曇らせてから、
「もう2〜3日で、店閉めるんや。」と応えてくれた。おばあちゃんはすぐにいつもの笑顔に戻っていたけれど、ぼくは思いもよらない突然の出来事に適当な言葉を見つけられずにしばらく黙り込んでしまっていた。
おばあちゃんは話好きだった。戦中、戦後の食糧難のころの記憶は、ウチのおふくろと瓜二つだった。ようするに、歩くたびにプッププップとおならが止まらないという内容だ。イモのつるの食べ過ぎが原因だったらしい。
若いほうのおカミさんは無口だったけれど、いつも笑顔でおばあちゃんと僕の会話の傍らにいた。
御主人はさらに無口だったけれど、眼鏡の奥の視線はいつも穏やかだった。
このあいだ、シャッターが下ろされた店の前を通ると、おじいちゃんがどこからか自転車に乗って現れた。普段歩いているときは腰が深く曲がっているにもかかわらず、自転車に乗ったおじいちゃんの後ろ姿はすこぶるシャンとしていて、思わず吹き出してしまったほどだった。
「心のオアシス」がひとつ消えた。「はんだ家の人たち」は、僕が出会うまちのどの人よりもさりげなかった。棚に並んだジュースを選ぶときも、ストローでいきおいよくそれを飲み干す時も、「はんだ家の人たち」には善意の押しつけなど何も感じられなかった。
もうなかなか会えないだろう。
このへんで「不二家ネクター」を売っているところはあそこしかなかった。ひょっとしたら、はんだ家の人たちも不二家ネクターも、僕の記憶の中でしかかかわりを持てなくなってしまうかもしれない。
だけど、僕はそれを静かに見送ろうとしている。
大好きだったから、思い入れが深かったから、静かに見送ろうとしている。
このコーナーは、当センタ−ホームページの「CIL豊中近況」というところから抜粋しました。事務局のようすが少しでも分かっていただけたら嬉しく思います。
≪3月≫
2006/3/4 サロン、ILPパーティー
今日は午後からサロンで、入口の扉ガラスの、春バージョン模様を作りました。みなさん本当に工作が上手でした。夕方にはILP講座の終了パーティーが行われ、一人ギターやハーモニカを持ってきていて演奏したり、なかなか楽しいひと時でした。
2006/3/6 トップページ、マイナーチェンジ
当ホームページのトップページを、本日、マイナーチェンジしました。これまでのトップページでは、『新着情報』とか『掲示板』と書かれているロゴの文字が非常に小さく、タイトルロゴは少々大き過ぎという印象がありました。この2点を改良したことで、少しは今までより見やすくなったかと思うのですが、いかがでしょうか?
≪4月≫
2006/4/14 ヘルパーステーション、間もなく移転
ヘルパーステーションは、16日付けで、同じルシオーレ南棟の202号室に移転されます。その移転の準備が着々と進んでおりますが、新しい事務所はとにかくチョ〜広くてビックリしてしまいます。来週からは、202号室での業務となります。なお、自立支援センターのほうは、305号室のまま変わりません。よろしくお願い致します。
2006/4/19 でか〜!!
一つ前の書き込みでもお知らせしていた通り、ヘルパーステーションが2階へ移転しました。17日(月)から、新しい事務所での始動となったのですが・・・・・。でか〜!!とにかく広いです。でも、将来はあの広さでさえ、手狭に感じてくる時代がやってくるのでしょうか?私は今回を含めて3回事務所移転を経験し、最初はその広さに感激するも、やがては「ちょっと狭い」と感じるようになりましたから。
2006/4/26 内部学習会
本日14:00〜16:00まで、CIL豊中の職員を中心とした関係者を対象に、内部学習会が行われました。自立支援法の区分調査についての学習会で、パーソナルサポートセンター枚方の長尾さんが講師に来られました。調査員の課題や、調査の現場で起こりうる問題点などを、詳しく説明してもらいました。
昨年6月から、毎月第1週目と第3週目の土曜日に、“さろん” をしています。
“さろん”とは、集まって、おしゃべりして、時には窓飾りを作ったり、絵を描いたり、ゲームしたり、お茶会をしたり、ポップコーンをつくったり・・・とにかくみんなで楽しいことをしよう!という場所です。もうすぐさろんを初めて1年ということで、常連?の方もでき、集まってから「今日は何しよう」としたいことをみんなで決める日もふえてきています。最近の人気は、やっぱりトランプ。ババが誰の所にあるかドキドキのババ抜きやみんなでルールを作っていく大富豪も盛り上がります。また、新しいものでは紙で力士を作っての紙相撲大会などの日もありました。次のさろんは???何が始まるのかな。
さろんノートより(参加者が感想や日記を書いています)
みんなで作った紙相撲の力士による土俵入り (写真は東方幕内力士)。 |
1/21 トランプをしました。楽しかったです。 2/4 今日はひなまつりを作りました。ぼんぼりを作りました。 2/18 トランプの大富豪がとてもおもしろかったです。 3/4 今日は、さくらんぼの口と耳を貼りました。 3/18 ポップコーン。辛い塩味がおいしかった。 4/1 紙相撲は楽しかった。 4/15 紙相撲を作ったり、こいのぼりの絵を描いたりした。楽しかった。 |
「さろんって何?行ってみたいな」と思った人は、気軽にどんどん遊びに来てくださいね。
時間内は出入り自由です。
日時:毎月第1週目と第3週目の土曜日の13時〜16時
場所:障害者自立支援センター(阪急蛍池隣接ビル ルシオーレ南館3階305)
問い合わせ:06−6857−3601
ヘルパーステーションCIL豊中
ケアプランセンター CIL豊中
TEL06(6840)8195 FAX06(6840)8196
支援費制度居宅介護サービス(4月からは障害者自立支援法)
支援費制度によるホームヘルパー、ガイドヘルパー派遣。
◇サービス提供範囲 豊中市及び近隣地域
◇サービス提供時間 24時間365日
介護保険訪問介護サービス
介護保険によるホームヘルパー派遣。
◇サービス提供範囲 豊中市
◇サービス提供時間 24時間365日
介助サービス(4月改定)
障害者自立支援を目的に、地域のささえあいに基づく登録制市民互助活動です(公的福祉制度外のサービス)。
◇対象者 原則豊中市在住の障害者
◇介助料
【一般介助】 1時間 1,200円
【宿泊介助】 1回(10時間以内) 8,000円
いずれも実費交通費(市内上限800円)を負担していただきます。
【旅行介助】 1泊(24時間) 16,000円
延長分は6時間(4,000円)単位で加算。
介助者の交通費及び宿泊費は利用者負担です。
◇キャンセル料
前日まで無料。当日は半額です。(上限10,000円)
※条件の合う登録介助者が見つからず、御希望にそえない場合があります。
ホームヘルパー・ガイドヘルパー養成講座
ホームヘルパー・ガイドヘルパー養成講座の開催(随時)。
介護保険居宅介護支援サービス(無料)
ケアマネジャー(介護支援専門員)によるケアプランの作成、サービス事業者との連絡や調整、申請や更新の代行など。
豊中市障害者自立支援センター
TEL06(6857)3601 FAX06(6857)3602
豊中市障害者生活支援事業(無料)
障害者やその家族等の相談等支援をします。
◇ホームヘルパー、デイサービス、ショートステイなどの利用援助
◇社会資源を活用するための支援 ◇社会生活力を高めるための支援
◇ピア・カウンセリング ◇専門機関の紹介
自立生活体験室
障害者の方が、自立生活を体験してみる部屋です(介助者の方は無料)。
◇宿泊利用 1泊1,500円 ◇デイ利用 1回(5時間まで)750円
豊中市障害者外出支援サービス
車いす対応車を運行し、一般交通の利用が困難な障害者の社会参加を支援。
◇利用対象者は豊中市に居住し、次に該当する人です。
@身体障害者手帳1・2級(下肢、体幹、視覚、内部)を所持している人。
A療育手帳Aを所持している人。
B腎臓機能障害で透析治療を受けている人。
注 15歳未満で車いすを使用していない人は利用できません。
65歳以上で車いすを使用している人は利用できません(豊中市社会福祉協議会の「ほのぼの号」を利用 (6841−9393)。
◇利用日時 午前9時から午後5時(年末年始12/29〜1/3を除く)。
◇利用回数 月2回まで利用できます。
◇利用料・区域
@豊中市内 片道 500円 往復1,000円
A特定区域(豊中市隣接)・施設 片道 1,000円 往復2,000円
特定施設は星ヶ丘厚生年金病院・大阪府立大手前整肢学園・大阪警察病院
◇キャンセル料 当日キャンセル500円
◇同乗者について 必要に応じて家族・介助者の同乗をお願いします。
点字名刺
ノーマライゼーションを目的に点字名刺の作成販売。※送料は一律270円
◇既存名刺への点字打ち込みの場合 10枚150円
◇片面名刺印刷と点字打ち込みの場合 10枚300円
◇両面名刺印刷と点字打ち込みの場合 10枚350円
ロゴ・イラスト又は写真入りの場合は10枚につき50円の加算となります。
回れ、車いす
一辺田正
回れ、回れ車いす
僕といっしょにダンスを踊ろう
なにひとつじゃまするもののない床で
遠慮もためらいも投げ捨てて
車いすよ、回れ
物怖じする花たちや
控えめにまたたく星たちに
きみの喜びきみの笑顔をみせてやれ
重石をとりのぞいたら心は
こんなにも軽やかに舞うことを
知ったみんなはきみのまわりを
きっと舞いはじめることだろう
回れ、回れ車いす
みんないっしょに手に手をとって
大きなダンスの輪を作ろう
命
みんな必死で生きている
どんなに苦しくたって…
短いことをわかっていても
必死で乗り越えて
命の大切さを忘れないで欲しい
決して命は無駄なものじゃないことを…
−あい−
好きな人へ…
一緒にいてくれてありがとう
辛い想いばかりさせてごめんなさい
もうあなたが悲しまないように
心から願っています
あなたが幸せになるまで遠くで見守ってるよ
変わることないこの想い
大切にしまいこんで…
PS 永遠に幸せになれますように…
−あい−
君は京の女
君は京の女
高瀬の流れに身を浮かベ
一つの心を胸に決め
流れの水に涙を落とす
祇園の町は尼寺のよう
寂しい女に化えてしまう
君は今日から舞子になった
君は京の女
着物姿がよく似合う
明るい時とは別人のよう
京の月はスポットライト
本当の君を影にして 偽りの君を写し出す
君は今日から舞子になった
君は京の女
町の外れのお稲荷様
赤い鳥居に花を添え小首を下げて涙を落とす
夕日に染まった木屋町は
恋を捨てた女の町
華やかに舞う君の過去 何もかも捨てたのか
嫌なお客に飲まされて 舞い続ける君の影を
そっと見つめる人もいる
君は今日から舞子になった
私は京の町が好き。生まれ育った町じゃないけれど、なんとなく好きな町。
特に、祇園・先斗町・木屋町の夜。
ネオン燈めく華やかな所もあるが、少し奥に入ると そこは、昔の茶屋小屋風の建物が多く、格子戸の中には、茶屋女がいるような、物悲しい雰囲気のする所もある。
騙された弱い女が、何もかも捨てて生きて行く。
それが、厳しい稽古に耐えた芸子の真の心・京の女心。
厚い白粉は、そんな女心を隠すためなんだろう?
そんな女に成り切れない一人の舞子が、西陣の着物を着て、夕日に赤く染まる京の町を歩いて行く。
夜になるとまた別人になって、美しく舞う娘になる。
そういう、何処かに封建時代の、ある意味では強い女、またある意味では悲しい女の面影が残っている町、京の町。
何か、私の心を引く物があるのだろう。
散歩
なんとなく家を出た
そして歩き出した
手にはカメラを持って
ゆっくり ゆっくり 何も考えずに歩いた
ふっと 立ち止まった
そこには美しい花が咲いていた
その花をカメラで写した
そしてまた歩き出した どこまでも続く小道を
ゆっくり ゆっくり 何処へ行くかもわからずに
ペンネーム 逢夢(あいむ)
春色の空から
仕事帰りの夕刻に何気なく空を見た
カラメル色のキャンバスに浮かぶ雲
遠くに聞こえるは汽笛の嘆きか
街灯に照らされて影が長く伸びる
そばの公園で一人の少女がシャボン玉を
飛ばせている
北摂の兄貴
短歌投稿
ケガもなく 病いも知らず 一生を
暮してほしい せめて君には
一人いて なつかし母を 思い出し
涙ととも共に 寝る夜がある
伊丹市 岩国 久美子
このコーナーでは、みなさんからの短歌、俳句、詩などを募集しております。詳しくは編集長 ま〜たれまで。
みなさまどんどんご応募ください。
お知らせ
・今号より、印刷板の表紙が少しだけ変わりました。ヘッドタイトルと、写真説明文に読みがなが付き、また、『○年○月号』というのを表記いたしました。これで、お手持ちの広報誌が、何年何月頃に得たものであるか、パッと見て分かるようになったと思います。
・こちらにも書いておりますが、9月10日(日)に、2006年度第一回市民講座を開催いたします。10月から自立支援法に切り替わる福祉サービス(地域生活支援事業など)について、全国自立生活センター協議会の佐藤聡さんに講演していただきます。ぜひご参加下さい。
何だかんだ言って、私がこのコーナーに登場するのも、3回目となりました。最初は2回の予定だったのですけどね。果たして来号はどうなることやら・・・・。また登場していたりして(笑)。
今年は4月になっても、寄せては返す三寒四温。なかなか初夏の予感が感じられませんでしたが、ようやく出かけやすくなってきました。
それにしても、毎度のことですが、今回も私はよくドジを踏みました。根がドンくさいだけに、何をやらせても抜け落ちてばかり。最後は必要以上にバタバタして・・・・。それだけに、みなさんのフォローには、感謝感謝です。
突然話は変わりまして、自立支援法(自立阻害法)がいよいよ始まりました。依然、活発に各地で学習会等が行われていますが、そのたびにみんな暗くなって帰って行きます。今回、せめて特集だけでも違う気分を味わってもらおうと、制度とは何の関係もない、スポーツの記事を特集にしました。次号でも、何か明るい記事を探してきたいものですが、さてさて、何を取り上げようか。早速今からネタ探し≠ナす。では、また次号に。