『障害児教育についての学習会』を開催しました


2012年2月25日(土)、18:00〜20:00まで、ヘルパーステーション現任者研修『障害児教育についての学習会』を開催しました。
この先、障害児を取り巻く教育環境がどうなっていくのか、先行き不安な部分もある中、今一度、豊中で行われてきた、他地域ではあまり例のない障害児教育への取り組み、そしてそれに関連したエピソードなどを話して頂きました。

講師は、豊中市立第五中学の教員で、Web版歩道調査マップの作成にも携わっておられる、齋喜(さいき)慶三さんです。

豊中駅前の風呂屋の息子として生まれた齋喜さんは、大阪芸術大学デザイン科に進み、グラフィックデザイナーとして活動を始めました。
その傍ら、芸大受験生のためのデザイン塾講師を勤めていた時、生徒の中に耳の不自由な人がおり、筆談でイメージを伝えるという事の難しさを体験しました。

この体験が、結果的に現在の、障害児教育に深く関わる齋喜さんの原点になったとも言え、1981年に東大阪市内の中学の美術科講師の採用試験に合格。
翌82年に豊中市立第十五中学に赴任されるのですが、これが決定的な転機となりました。

デザイン塾時代の経験があった事から、十五中では難聴の生徒がいるクラスの担任となり、高校受験の際に初めて、障害のある生徒の進学は大変厳しいものがあると知りました。
これを皮切りに齋喜さんは、出身地でもある豊中で、多くの障害児(生徒)と出会っていくことになります。


明朗快舌!重い内容の時でも漫談トークで参加者を引き付けた、齋喜慶三先生。



1990年に第六中に転勤となり、美術を受け持ちましたが、あるクラスに自閉症の生徒がおり、その生徒は毎週決まった曜日(学校のある日)に、どうしてもある場所に出掛けてしまう(学校を抜け出してでも行ってしまう)ことから、齋喜先生はその曜日を公的なスケジュールとして、その生徒との外出日に設定しました。
これに対して、相手が障害児だからと言って特別黙認せず、「先生、それおかしいやん」と疑問を投げてきたクラスの生徒たちを見て、「やっぱり豊中の子って、あくまでみんな平等って見るんやな」と感じたそうです。
実際、後になってその生徒は段々学校からの外出はしなくなったのですが、そうなった切っ掛けも、ほかの生徒たちから「みんなに心配ばっかりかけて」と、真っ直ぐに怒りをぶつけられた事でした。

第六中で出会った、障害のある生徒とは、卒業後もほかの生徒たちに対してと同じく、連絡を取り合ってつながりを保ちました。














★★障害児の親へのメッセージ
我が子が何かトラブルを起こしてしまった後、帰ってきた時に、抱きしめて無事を喜ぶだけではなく、ちゃんと叱ってや。
先生だけが叱っていたら、先生=悪者みたいになってまうがな(笑)。

我が子をみんなの前(学校の教室やイベントの場など)で紹介する機会がある時に、その子の出来ない事や悪い面ばっかり言わないでほしい。
いきなりみんなに謝る事ばっかりしないでほしいな。

親が知っている子どもの一面は確かにあるけど、学校での姿は家の中と同じではないし、学校での様子を一番よう知ってるのは、やっぱり子どもたちや。














●障害のある生徒が高校に行くために・・・・・
障害があるために学力にハンディのある生徒や、在日外国人で日本語にハンディがある生徒、それに古くは部落出身で、教育を受ける機会が無かったというハンディがある生徒は、一般の入試で高校に合格することが非常に困難です。
そういう生徒をこのまま放っておいて良いのか?という声が、小中学校や人権教育から上がっていました。

点数やランクに関わらず、「とにかくみんなと同じ様に高校に行きたい」という思いを実現すべく、ある時豊中市内に新しい高校が設立され、そこを齋喜先生が教えたクラスの生徒たちが、一斉に受験したという事がありました。
その内の2人は障害のある生徒で、中でも1人は日頃から教室で飛び跳ねる事がある人でした。
何とかみんなと同じ教室(同室の受験生の大半は、その生徒をよく知っていた)で受験出来ることになったのですが、当日、別室にて待機していた齋喜先生の不安的中(?!)、教室内で飛び跳ねだし、2科目目から別室での受験となりましたとサ。

●今の豊中の障害児教育と、これから・・・・・
最近の豊中では、『障害児は普通学級にいるのが当たり前』となっています。
ただ、実際にはみんなと同じ学級では勉強に付いていけないので、抜け出して、個別学習させてくれという流れになってきています。
親御さんの中には、「せめて掛け算の九九ぐらいは覚えさせてやってほしい」と頼んでくる人もいる様で・・・・・。
また、高校でも、定員に対して障害者は別枠≠ニいう扱いになっています(例えば定員100人ならば、その内の何人が障害者とはならず、100人以外に障害者が何人となる)。

子どもたちがどれだけ『共に過ごす』『同じ』という感覚でいたとしても、そこへ大人たちの概念が介入することで、子どもたちは確実に、彼ら(障害者)を別だ≠ニ見る様になります。
「もう高校生になると、障害児だからといって、どんな場にも先生が付いてくるというのは良くない。先生が横にいると甘えてしまうし、特に就職の時など、どんどん厳しい事も言わないといけない」
このことを一番よく知っているのは、彼らと共に過ごしてきた、ほかの生徒たちです。
今まで豊中が育んできた『同じ教室で学ぶ』という感覚を失いたくはないのですが、世の中では確実に、分ける≠アとが流行ってきています。

ある小学校1年の教室でA君という生徒が、前の席のB君の髪を引っ張るという理由で、周囲をダンボールの仕切りで区切られてしまいました。
それを伝え聞いた齋喜先生は、
「そんなことをしたら、ほかの生徒にもそのダンボールが、大人が思う以上に大きな壁≠ニして映り、『あっちとこっちでは世界が違う』という認識になってしまう
と思い、仕切りは徐々にでいいから低くしてほしいと、その小学校の先生と話し合いました。
A君はどうしても髪を引っ張るそうですが、担任の先生はB君(髪を引っ張られるほう)に対して、『なぐらない』『いじめない』を徹底させた上、我慢したB君を、みんなの前で物凄く褒めるようにしました。
そしたら、ほかのみんながB君を応援する気持ちになって、結果的にA君との壁≠ヘ無くなりました。

齋喜先生:「こういう子どもたちの受け止め方や感覚を、もっと大事にしていきたいんよ!」


研修全景。20名あまりの参加者が集まりました。



●忍び寄る『ランキング化』の影
現在、全国で大阪府のみ、年間33人までは、自立支援コースといって、障害者は面接と校長推薦だけで、無試験で高校に入学出来るようになっています。
ところが、このコースで入学する障害者にも、昨年あたりから、“ランク”が付けられる様になってきました。
府内に、いわゆる『知的障害者のエリート校』タイプの支援学校が設立されたのです。
かなり難しい試験を受けなければならないそうで、通学は自力で出来る人が条件です。
何故このようなエリート校を創るのか?

知的障害があると言っても、人それぞれ千差万別です。
中には勉強がよく出来る人もいるわけですが、そういう人だけを集めて就職出来やすいルートを創ろうというのが、もしかしたら狙いなのかも知れない、との事でした。














豊中での教師生活を始めてから、ちょうど30年。
この間、多くの生徒(障害者・健常者とも)を送り出してきましたが、卒業後のつながりというのは、昔に比べると希薄になりつつあります。
また、長く一緒に学んできた生徒たちが、ある時期を境にパタッと会わなくなる(特に普通高校進学が、障害者にとってはハードルが高いため)という現象が、昔から見られるのですが、どうあっても最終的には、地域で共に学び、触れ合って、暮らしていく事がゴールになっていなければならない、と、変わりゆく情勢を見ながら話しておられました。

齋喜先生、参加者の皆さん、当日は有難うございました。



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