【難病と暮らす今の生活】
− 2013年度第2回、市民講座を開催しました −
2014年3月9日(日)13:30〜16:45、今年度第2回市民講座を、蛍池ルシオーレホールにて開催致しました。
2013年度より施行された障害者総合支援法に於いて、難病が福祉サービスの対象に含まれました。
それでは、現状、難病当事者を取り巻く環境は改善されているのか?国の施策を受けて、市町村はどう動いていくのか?今回はそのような気持ちから、このテーマを選んだ次第です。
まだまだ寒さが厳しかった中、当日は30名あまりの参加者がお越し下さいました。
今回は難病をテーマに取り上げ、当センターの市民講座としては初めて、4人の講師に来て頂きました。
講師の方々は講演順に、以下の通りです。
・豊中市保健所 保健予防課難病グループ 保健師、中尾こずえさん
・人工呼吸器をつけた子の親の会『バクバクの会』 事務局長 折田みどりさん
・脊髄性筋萎縮症 難病当事者 西村泉さん
・自立生活センター おおさかひがし 事務局長 宮ア健一さん
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中尾こずえさん
豊中市は2012年度から中核市に移行し、それまで大阪府がおこなっていた保健所業務を、豊中市が行うようになりました。
難病グループは、その時からスタートしました。
現在、国では通常国会において、難病の制度改正がなされています(難病新法と言われている)。
難病施策は、これまでは実は法律ではなく、1972年に設けられた『難病対策要綱』に基づいて実施されてきました(今現在も)。
この要綱の中では、難病の定義は、
(1)原因不明・治療方法未確立であり、かつ後遺症を残す恐れが少なくない疾病
(2)経過が慢性にわたり、単に経済的な問題のみならず、介護等に著しく人手を要するために、家庭の負担が重く、また精神的にも負担の大きい疾病。
とされています。
国の難病対策の柱となるのは次の5つです。
1.調査研究の推進(難治性疾患克服研究事業)
2.医療施設等の整備(重症難病患者拠点・協力病院整備)
3.医療費の自己負担の軽減(特定疾患治療研究事業等)
4.地域における保健医療福祉の充実・連携(難病特別対策推進事業、難病相談・支援センター事業他)
5.QOLの向上を目指した福祉施策の推進(難病患者居宅生活支援事業→平成25年4月から障害者総合支援法)。
この内、4において、各市町村の保健所が活躍する出番となります。
具体的には以下のとおり。
●地域の患者状況の把握(医療費自己負担軽減=大阪府特定疾患医療費援助事業の申請・進達業務)
●個別・集団援助
●支援システムの確立
●地域ネットワークの構築
【個別支援内容】
面接・訪問・専門職(作業療法士、理学療法士、言語聴覚士、心理衛生士、歯科衛生士、栄養士)による相談・電話相談。
ほかに障害福祉課より、居宅介護・短期入所・日常生活用具の給付など、補装具費の支給。
次に、豊中市の特定疾患医療承認者数です。
※単位(人) | 2008年度 | 2009年度 | 2010年度 | 2011年度 | 2012年度 |
豊中市 (大阪府) |
2,063 (47,300) |
2,166 (49,914) |
2,364 (52,560) |
2,485 (約56,000) |
2,626 (約58,418) |
現在、国の基準で特定疾患の対象とされているのは56疾患ですが、難病新法においては300疾患にまで拡大される予定です。
豊中市では上記表のとおり、2,626人の特定疾患者がいますが、年間約200人ずつ増えているということです。
★保健師の難病患者に対する相談事業の内容★
(1)個別支援・・・・・電話、面接、または訪問によって聞き取り。相談件数としては、年間延べ約3,400件。
※新しい医療受給者証支給の際は、保健師との面接が必要。
(2)医師による、患者対象の講演会を開いてもらう。
(3)入院患者が在宅になる(退院する)際、カンファレンスに参加して、各支援者の役割分担について助言。
(4)ケアマネージャー対象の研修会の開催や、病院との連携会議、北摂地域の保健所と課題共有(地域ネットワークの構築)
★これからの難病対策の改革★
「難病患者は、人類の多様性の中で一定の割合、発生することが必然であり、当事者および家族を社会が包含し、支援していくことが、これからの日本社会にとってふさわしい」というのが、基本的認識とされています。
治療・克服を目指す一方で、当事者の社会参加を支援し、難病にかかっても地域で尊厳を持って生きられる社会の実現を目指していかなくてはなりません。
そのために、国・自治体とも、『効果的な治療方法の開発と医療の質の向上』、『公平・安定的な医療費助成の仕組み構築』、『国民の理解促進と社会参加のための施策の充実』を改革の柱としていきます。
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折田みどりさん
折田さんは、人工呼吸器をつけている難病当事者の親です。
そして折田さんが事務局長を務める『バクバクの会』は、1989年5月に、淀川キリスト教病院の院内グループとして、7家族の構成員によって発足しました。
当時はまだ、呼吸器をつけた人が地域生活が出来る時代ではなく、病院で暮らす中でも、少しでも一般の人と同じようなQOLで過ごせないか?という思いから発足したものです。
その一方で、少しでも当事者が病棟外で過ごしたり、家族と過ごしたり、在宅で過ごしたり出来ないものか?と、医療者とも力を合わせていろいろな取り組みをする中で、1990年3月、尼崎市に住むHさんが退院して在宅生活を開始し、当時、マスコミでも大きく取り上げられました。
それを切っ掛けに全国の当事者およびその支援者から問い合わせが殺到し、同年5月、バクバクの会は全国組織化されました。
現在、会員数は497人で、年齢層は0歳〜56歳となっています。
最近では、呼吸器をつけていて医療的ケアが必要な重度障害者も、病院から地域に帰そうという動きになっていますが、実はその背景には、「同じ患者が長く入院していると、新しい患者が入院出来ない」という病院側の事情もあり、まだ退院までもう少し時間が必要な場合に於いても、病院のほうが「早く退院して下さい」と促すような現象が起きています。
2012年には、被災地のバクバクの会メンバーを励まそうということで、定期総会を仙台で行いました。
実は2011年の総会予定地が仙台だったのですが、予定していた会場が被災し、急遽関西に変更しました。
しかし翌年、仙台で行うことが出来たのです。
『どんな命も等しく大事。ある人の命を、他人の尺度でどうのこうのと決めてはいけない』これが、バクバクの会の基本理念です。
呼吸器をつけて生活するには、当然いろいろな人の支援が必要になるので、在宅医や訪問看護、常態薬局や保健師、それに相談支援の人の力も借りる時はあります。
日中の社会参加の支援や、家族のレスパイトの支援も行いながら、生活は続いていきます。
さて、このあとは息子さんの話になりましたが、折田さんは、2009年度の当センター市民講座でも、一度息子さんのことを語られており(息子本人も講師として来られた)、その時の内容はこちらのページを参照して下さい。
息子さんは今年25歳で、池田市内で自立生活をしています。
生後6ヶ月から人工呼吸器を使用し、入院生活を送っていたのですが、1991年4月、ある新聞記事が切っ掛けで『バクバクの会』の存在を知り、入会しました。
当時、呼吸器をつけた子を自宅に帰そうという新しい動向が始まっており、尼崎に住む同じ障害のHさんが退院を果たしたという事例もあったことから、折田さんは「ウチの子も退院を」と、淀川キリスト教病院で退院指導を受け、3歳半の時、退院が実現したのです。
地元である池田市と何度も交渉を重ねた結果、地域の保育園への通所が実現し、保育士と看護婦(現看護師)との連携プレーで、吸引等医療的ケアを行いましたが、小学校は当初なかなか地域の学校に受け入れられず、再三の折衝の結果、『親の付き添いを条件に』入学が認められたのです。
しかし、ずっと親の付き添いだと、親は夜間のケアも毎晩しなくてはならないので、夜間の時に身体が持たず、呼吸器のアラームが鳴っても気付かないということがあっては大変なので、息子が小学校3年生だった1999年1月、『親の付き添いを無くす会』を発足させ、その結果、1年余り経った5年生の時より、看護師資格のある介助員が池田市より派遣され、ようやく親の付き添いが解消されました。
2003年4月に、国の制度が始まりましたが、どの事業所も「医療的ケアを伴う介護はウチでは出来ない」と断ってきました。
この背景には、医療的ケアに対する『難し過ぎて危険、怖い』という思い込みが存在しており、制度開始に先立つ2002年10月、医療的ケアについての社会的理解を深める、『医療的ケア連絡協議会』が発足しました。
2011年夏より、息子さんは24時間介護を受けていますが、介護給付の時間は現在、重度訪問介護で1377時間出ています。
一人暮らし以降、息子さんの支給時間は以下のように変更(改善)されてきました。
・2011年7月、1120時間
・2012年5月、1160時間
・2013年2月、1200時間
・2013年11月、1377時間 ※時間数は毎月、類型は重度訪問介護
全ては地道な交渉の結果ですが、息子さんは2人介護で、1400時間以上が必要なので、現在でも毎月交渉しています。
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西村泉さん
私は、脊髄性筋萎縮症という、全身の筋力が低下していく進行性の病気をもって生まれてきました。
発症年齢や程度によって、3つのタイプに分かれるそうで、私の場合はその中の『中間型』だそうです。
6歳の時に、両親が異変を感じたのが切っ掛けで、生まれつき障害があることが判明しました。
その頃は、一人で座ったり、手を動かすことは自由に出来ていました。
しかし、進行性なので、自分でご飯を食べることや文字を書くなどの行為が、出来なくなっていきました。
急にではなく、少しずつ、最初は「あ〜、やりにくいなぁ」と感じながら、「出来なくなるのはしょうがないこと」と思いながら過ごしました。
現在は少し指先が動き、パソコンの操作が出来るくらいで、あとは全てにおいて介助が必要です。
リハビリのため通い続けていた、病院の療育センターの協力を得て、地域の保育所に4年間、小学校も地域の普通校に通いました。
自分のために先生が1人付き、出来ない事を助けてくれました。
小学校では、周りの人たちの接し方もごく普通のサポートで、その頃は障害を意識せずに過ごせていました。
しかし、5年生の頃から障害が進行し、入院が必要になって、自らを障害者と意識するようになっていきます。
呼吸機能が低下し、それが原因で体重も減少しました。
この時から私は、日中は酸素をつけ、夜間は人工呼吸器をつけて過ごしています。
私は東大阪市で育ちましたが、11歳から11年間、豊中市の刀根山病院に入院して、隣接する刀根山養護学校(現刀根山支援学校)に通いました。
この時、同じ病院にいた人がその後退院して自立生活を始めたので、「私もいつか出来たらいいなあ」と思っていました。
ただ、すぐには退院出来なくてもいいと思い、学校を卒業してからも刀根山病院にいました。
病院は、決して嫌なことばかりではなく、看護師さんもいい人がいたし、ほかの患者さんとも楽しく過ごす時がありました。
ただ、障害が進行するに連れ、何をするにも、より多くの人の助けが必要になってきたので、人手の少ない病棟では、なかなか頼みにくい気持ちになっていました。
周りに頼むのを遠慮して、いつしか自分の楽しみもしなくなっていった中で、これからどんどん進行するのだったら、まだ少しでも体力がある内に、もっと自由な生活を楽しんでおきたいという思いが沸き起こり、退院することを決意しました。
先ずは母親に伝えて了承してもらい、実際に在宅生活をしている先輩に相談し、病院に伝えました。
幸いにして、家族や周囲に反対されることはなかったので、話はスムーズに進み、沢山の支援機関に関わってもらいながら、体制作りを準備していきました。
そうして、東大阪市にある実家にて在宅生活が実現し、その後9年間、平日は10時間ヘルパーさんに来てもらい、週3回訪問看護に来てもらって、それ以外の時間は家族とすごしていました。
豊中市に引っ越してきて、一人暮らしを始めたのは昨年9月末のことです。
その1年ぐらい前から、一人暮らしをしたいと考えるようになりました。
そろそろ家族を楽にさせたいなと思ったし、親が介護が出来なくなった後、病院生活には戻りたくなかったので、今の内に一人暮らしをしようと決意しました。
昨年1月にそのことを周囲に伝えましたが、特に反対はされず、退院時と同じように、いろいろ準備が始まることになりました。
迷ったのは、両親がいる東大阪市に住むか、刀根山病院がある豊中市に住むか、どちらにしようか?ということでした。
今まで暮らしていたところで一人暮らしをしたほうが、いろいろスムーズにいくだろうなと思いました。
でも、障害が進行した時、病院が遠いのはなかなか大変です。
悩んだ末、東大阪市と豊中市の両方の事業所に、それぞれ相談しました。
約3ヶ月間、いろいろな意見を聞いて、最終的に私は、豊中市で一人暮らしをすることを決意しました。
その後半年間、転居・一人暮らしに向けて具体的な準備を行い、順調に進んだ部分もありましたが、ヘルパーの人員の確保は、なかなかうまくいきませんでした。
最終的には何とか24時間介護の体制を確保し、研修などもおこなって、一人暮らしが実現しました。
それから4ヶ月が経ちました。
最初は正直、何かと大変なことがありましたが、周りの助けのお陰で、一人だけで悩むことをせずに、生活していけるようになりました。
現在は、4事業所25名のヘルパーが、交代で介護に入ってくれています。
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宮ア健一さん
私は、実は難病指定自体はされていません。
小中高と普通学校に通い、その後は服屋に勤務していました。
20歳の時、車同士の交通事故に遭い、全身30ヶ所骨折、10日間意識不明の大怪我をしました。
意識が戻ったあと、医者から、「あなたは本当に今まで、普通に立ったり歩いたりして生きてきたんですか?」とまじめに訊かれて、思わず「ハァ?」となりました。
「いやもちろん、普通に歩いて、働いていましたけど・・・・・」
医者曰く、「レントゲンを見る限り、あなたの骨は立って歩けるほどの強度はない」ということで、具体的には、全身が骨粗鬆症で、骨がスカスカの状態だということです。
事故に遭う前の生活を話しても、なかなか信じてもらえない状況でした。
骨に強度がないため、手術をしてもボルトで固定するということが出来ず、骨の中にワイヤーを入れるという処置が取られました。
そのまま1年近く入院し、ギプスを取る時に「左腕を切断するかどうか?」ということになったのです。
私は、「骨が壊死したら切断してもらうとして、それまではしないで下さい」と再三お願いしました。
そしたら、人間の身体というのは面白いもので、中でいろんな細かい物が固まって、骨になっていきました。
「もし、最初に言われた時に切断していたら・・・・・?」それを思うと、正直医者を信用出来なくなりました。
1年半ほど、ほぼベッド上の生活が続いたあと、ようやく歩くリハビリが開始されたのですが、身体が完全に歩き方を忘れていて、いくら理屈で「こうや」と解っていても、身体自体が、どうやって歩いたらいいか分かりませんでした。
それでも半年間のリハビリで、松葉杖を使用して歩けるまでに回復し、ようやく退院。
退院後もさらに半年間通院リハビリを続けました。
その間も医者は、「全身の骨が耐えられないから、歩かないで下さい」と言われ、別の病院にも数ヶ所行って診てもらうも、見立ては同じでした。
実際にほかの病院に外来で行った時も、当然病棟内に入れば立って歩いて診察室まで行くわけですが、医者は、それを分かっていてもなお、「おかしい」と言ってきまして、私も「訳分からんな」と思い、通院を止めました。
私はリハビリがてら、建築会社で働き始め、鉄筋やセメントを担いだり、工事用一輪車を押したりしていました。
その間も骨折は2回ほどあり、また骨がスカスカなので、固定用に入れている針金が、皮膚を突き破ってくるということがあったのです。
10トントラックも運転していたのですけど、ブレーキを踏む時に針金が突き出てきたりというのは、これはもし事故を起こすと、自分1人だけの問題ではないので、運転は止めました。
その後、もう一度自分の身体について知ってみたいと思って、ある骨の病気に詳しい医師に出会いました。
その結果、私の骨は頭蓋骨からつま先まで、『自分で作っては壊し、作っては壊しを、随時繰り返している』ということで、進行性ということでした。
しかも、右手指先から右肩までのみ、この病気には侵されていないということで、何とも不思議な話としか言いようがありませんでしたが、今の医学では説明が付かないということです。
医師からは、「骨を壊してから作るまでの間に、何らかの悪性の要素が入ると、癌に変わって全身に回るので覚悟しておいて下さい」と言われています。
悪性の要素が入ったと自分で判る方法は?と訊くと、「どこか1ヶ所、めちゃめちゃ痛くなりますので、それがサインだと思って下さい」と答えてきました。
でも、よく考えたら、私は四六時中激痛が走っている状態なので、もしかしたら気付く前に死んでしまうんじゃないの?と思ったりして。
でも一つ判ったのは、自分のような骨の病気は、世界でも希有で、発症は遺伝によるものも少なくないということです。
20歳の時の交通事故まで、何不自由なく暮らしていましたが、事故で全身を骨折したのが引き金となって、自分の中で密かに眠っていた、骨の病気の誘因となる遺伝的要素が、言わば起動し始めたのかも知れません。
この後私は、独学で福祉の制度を勉強し、何が自分に該当するかを見極めて、障害基礎年金や障害者手帳を取得しました。
役所や厚労省とさんざんやり合い、大変でしたね。
もう一度働きたいという気持ちにもなったので、ハローワークで求人を探した結果、現在の職場である『自立生活センターおおさかひがし』を紹介され、そこで働き始めて今年で7年になります。
現在の職場に就職したことが切っ掛けで、障害者制度の問題点や障害者運動のことなど、いろいろなことを学べました。
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今回は、CIL豊中主催の市民講座としては初めて、講師の人数が4人となりました。
それだけに、非常に内容も濃く、また、少々時間も長めになる講座になりましたが、インパクトのあるお話の数々で、参加者の方々には少なからず刺激を与えたようです。
過去、長い間制度の狭間に置かれてきた難病に対する施策が、今後どのようになっていくのか、注意深く見守りたいと思います。
当日、参加して下さった皆さま、講師の皆さま、本当に有難うございました。