2011年度第2回、市民講座を開催しました
テーマ:『中途障害からの立ち直りと社会復帰』

2012年3月18日(日)、2011年度第2回、CIL豊中主催市民講座を開催しました。
今回は、【中途障害からの立ち直りと社会復帰】をテーマと致しました。

人の一生の中で、ある時、何らかの原因により、どこかに障害がある状態になった場合、それらは全て、『中途障害』という事になります。
従って、生きている限り、誰もが当事者になり得る障害という事が言えるわけです。
障害になる前となった後とでは、丸で変わってしまう我が人生。
受け止め方も、受け入れに要する時間も人それぞれで、また、先天性障害者の場合とは、求められる支援や叫ばれるニーズも大きく違います。

今回は、中途障害当事者で、障大連(大阪市内)事務局の西尾元秀さんと、支援者で工房羅針盤(豊中市内)代表の山河正裕さんに、講師をして頂きました。

会場全景。今回は、すこやかプラザ1階多目的室を利用しました。当日は約45名の参加者が来られました。



★西尾元秀さん☆

西尾さんは中学2年の時の1月、年齢では14歳の時に左足を切断し、片足が無いという障害者になりました。
切断した理由は、左膝の上に腫瘍が出来て、足ごと取り除かなければならなくなったためです。
中学2年の夏頃から、左膝の上部分に違和感を覚え、最初は関節炎かな?と思っていたのですが、秋から冬へと進むに連れ段々動きにくくなり、年が明けて3学期に入ると、いよいよ痛みがひどくなって、結局入院する事になりました。

病院の中で、西尾さんは不安な毎日を送っていました。
というのも、「何度訊いても、医者も家族もまともに病名を言ってくれない」のです。
普通、大したことの無い病気だったら病名を告げるはず。
西尾さんは、「自分は相当深刻な状況にあるのだ」と悟りました。

入院して1ヶ月経ったある日、手術が行われました。
この手術で左足が切断され(悪性の腫瘍であったため)、術後、まだ麻酔が効いている状態の中で、家族からその事実を聞かされます。
西尾さんは、「悲しかったのではなく、ホッとした」のだそうです。
何故なら、今まではハッキリした事が何も分からず、どうなるのか見当も付かなかったのが、漸くハッキリして、ある意味一区切り付いたからです。

その一方で、突然片足を失った事に対して、どう捉えていいかサッパリ分からず、これからの生活がどの様になっていくのか、想像も付きませんでした。
ただ一つハッキリしていた事は、西尾さんは元々クラブでバスケットボール部に所属し、バリバリやっていたのですが、「それはもう出来なくなるなぁ」という事でした。
バスケットボール以外にも、とにかくスポーツは大好きだったのですが、それがもう出来なくなる・・・・・、考えるととても悲しくて、泣きそうになるので、考えないようにしました。

西尾元秀(にしお もとひで)さん


退院後、西尾さんは左足に義足を着けて生活を始めました。
そして中学に復帰しましたが、周りは何となく、自分に対して気を遣っているなという印象でした。
自分自身は気丈に振る舞っていましたが、周りの目にはそれが「頑張ってるなあ」と見えても、本人自身は反対に「追い込まれていく」という様な心地でした
左足を切断した事で、自転車にも乗れなくなったので、友達と自転車で出掛ける時は、後ろの荷台に乗っけてもらいましたが、西尾さん曰く、
「僕は『ありがとう』と言わないし、向こうも『しんどい』と言わない。何かお互い、その事には触れないという暗黙の空気があった。自分も周りも、お互いどうしたらいいのか分からない、という心境の中、それでも自分は守られていたのだと思う」

さて、その後高校に進学しましたが、高校は電車通学で、駅から健常者の足で徒歩15分の距離を、義足歩行で毎日登下校をしました。
西尾さんは、左足を根元から切断しており、そのため義足で歩く時は、義足を前に踏み出すにあたって、腰をテコにしてスイングする様な形で義足に力を伝えないと、左足で一歩進む事が出来ません。
また、義足で着地する際の足元が、確実に安定していないといけないので、どうしても足元に神経を集中させるし、結果として目線が下を向くという状態が続きます。

 
毎度お世話になります、パソコン要約筆記の『LIC』の方々

「果たして周囲の人には自分の歩き方がどう映っているのか?また、下ばかり向いていて、気持ちまでが下向きになっていかないかどうか?その様に周囲にも映らないかどうか」
高校生という、多感な年齢でもあった西尾さんは、不安に思っていました。

ただ正直、周りからの目線か逃げるために、敢えて目線を下げていた、という面もあったといいます。
実際、「変な歩き方だな」という目で周囲から見られた事もあって、それは心に突き刺さる体験となりました。


高校時代を通じても、なかなか障害の受容という事は出来ず、トンネルの中にいる様な心境でしたが、「どこかに出口があるはずだ」と信じて生きていました。
そうしないと逆に、生きていけなかったのかも知れません。


最終的に、いつ障害を受容出来たのか、「この瞬間に」「この出来事の時に」というドラマチックな体験は無く、薄紙を剥がすかのごとく、徐々に徐々に、前進逆戻りを繰り返しながら、10年近い歳月をかけて受容していけたと思います。
そして、今から15年ほど前に義足を外し、松葉杖に切り替えましたが、そうなると周囲の目にも、足が不自由な人だと一発で判る様になり、大変に扱いが好くなったという事です(笑)。

因みに、目線も前向きになってきて、まともに周囲の目線とぶつかる時も出てきたのですが、最初は強がって相手を見返している内に、本当に強くなって目線が気にならない自分になっていました。
現在、西尾さんは障大連のスタッフとして、様々な会議や交渉に、第一線で活躍されています。


★山河正裕さん☆

山河さんは、学生時代にかなり大きな事故に遭い、約6年間、入退院を繰り返しました。
若い頃なので、入院中は一日も早く退院したいと思っていたのですが、病院には脳卒中などで入院していた人もおり、その人の方が早く退院をしていくも、全然晴れやかな表情はしていなかったという事です。

実は、他の入院患者の何人かは、入院中に会社の上司が見舞いに来て、「退院して会社に戻ってきても、もう籍はありませんよ」と告げられたりしていました。
そして、「この先どうすればいいのだ」と、悲嘆に暮れる夫婦や親子の会話が、カーテン越しに聞こえてきたりしたのです。
そんな体験から山河さんは、「退院出来ても、それイコールめでたいとか、ラッキーとかいう事ではないんだ。寧ろ退院してからの生活の方が大変なんだ」という事を知っていきました。

たまたま、自身は障害が残らない身体に回復し、その後社会に出た山河さんは、何とか入院中に抱いていた疑問、即ち「途中で病気や事故で身体が不自由になった人の、退院後の生活の事を支える場は無いのか?」という事に関して、何か貢献出来る仕事に就きたいと思いました。
すぐにはその思いを実現させる事は出来ませんでしたが、約15年前に堺市にある、当時関西で一ヶ所しか無かった中途障害者のための作業所が、職員募集を始めたので応募し、働き始めました。

その後、1998年に豊中市内に作業所を立ち上げます。
主に中途障害者を中心に支援をしており、当時、途中で障害を負った人の行き場所が無く、家の中に閉じこもりがちの人がたくさんいた中で、何か外で話せる場所が欲しい(閉じこもっていたくない)という事で、7〜8名のメンバーでスタートしました。
そして作業所の名前を何にするかという話になったのですが、メンバーは元々家の中では、「いつ死のうか。どうやって死のうか」と、そればかり考えて過ごしていて、もうそういう時代には戻りたくない、二度と道に迷いたくないという思いから、『羅針盤』という名前にしました。

山河正裕(やまかわ まさひろ)さん


羅針盤では、『障害の程度によって、支援するしないを振り分けない』という事を基本ルールとしました。
そして、存在が知られるや否や、1週間に1人は利用希望者があるという状態になっていきました。
それだけ、中途障害者が通える作業所(社会的居場所)が、地域に無かったという事を意味しています。
あまりにも急激に利用者が増え続けた事から、開設僅か半年で拡張移転をしたのを皮切りに、これまでに4回引っ越し、増設を重ねました。
現在、利用者数は105名となっており、豊中市民のみならず、能勢町・島本町・宝塚市・尼崎市・大阪市全域など、北摂全域に広がっています。

ここで問題となったのが送迎で、自力通所出来ない人も多い事から、送迎エリアも鋭意広げています。
車の発注(普通の車をリフト車に改造)やドライバー確保が追い付かなくて、大変ですけど(汗)。

自分の住む地域では、さんざん探すも受け入れ先が無く、住み慣れた故郷を離れて豊中に引っ越し→羅針盤に通所を始める人もいます。
この間は一人、淡路島から転居してきまして、「こういうので果たしていいのか?」と疑問に思う事もしばしばだといいます。
初めて来た人は最初、いちるの希望を持ちながらも、一方では「どうせここも断られる」と人間不信に陥り、対応にあたった山河さんと、目も合わそうとしない人もいました。

 
要約筆記のスクリーンです。

さて、羅針盤の中で、日頃どういう支援をしているのかという事ですが、利用者さんの方が年上である場合が多いので、決して『教える』という視点には立ちません。
そして、物を作るにしても、一人で全工程を抱えなくてもいい、お互い得手不得手があるし、出来ない事は誰かに協力してもらう体制を採っています。
いろいろな技能を持っている人が集まった結果、羅針盤は実に多種の商品を扱う作業所になりました。
自分が作った物を売って収益を得られれば、それは本人にとっても生き甲斐になります。

中途障害者になるというのは、人生を一変させる出来事です。
ある日突然起こるので、本人はもちろん、周りの環境も激変します。
本人の離婚、ご両親の離婚、家庭の崩壊、こういった事は決して珍しくありません。
会社を解雇された事に端を発して、社会との接触を断つ人も稀ではありません。
個人や家族で受容する問題ではなく、地域や社会で理解を深める事が重要です。

講演後半は、高次脳機能障害について紹介されていました。
高次脳機能障害は、医学の進歩により、昔なら助からなかった病気や大怪我が助かる様になった結果、生まれてきた障害でもあります。
また車の増加など、社会環境の変化によって生まれた障害(主な原因の一つは交通事故による脳損傷)でもあります。
著しい記憶障害や、物事に集中出来なくなる、感情をコントロール出来なくなる等の障害が出てきますが、本人が自分の障害を自覚出来ない場合が多い事から、『受容』という面で特に難しいのが特徴と言えるでしょう。
現在、全国で約30万人の高次脳機能障害者がおり、年間1万人のペースで増加しているという事です。

支援は決して簡単ではありません。
成功例より失敗例の方が多いのが現状だし、『引き受ける責任を持てないから受け入れを断る』と、苦々しげに語る関係者もいましたが、せっかく命が助かって、「生きていて良かった」と思える社会でありたいものですね。


質疑応答では、西尾さんに対して、「片足ですけど、靴を買った時、もう片方はどうしているのですか?」と、考えてみればそうだよなという素朴な疑問が飛びました。
で、気になる回答:「この間全部処分してしまいました!私と足のサイズが同じ、障害だけ反対の足の障害者がいないものかと思ったが、これがいなかったんです」
そうか。長年残しておられたのですね。

もう一つはヘルパーをやっている方からの質問で、「利用者は中途障害で全介助が必要な男性で常に在宅。体位交換が必要で、ヘルパー歴は全く無い奥さんがやると、2時間以上同じ姿勢を保持出来るが、ヘルパーがやると1時間ぐらいしか保持出来ない。本職の人の方が技術が下なのは何故か?という疑問を投げかけられた。本人さんはヘルパーの技術が未熟である事から人間不信にも陥っている。ヘルパーとしても悩んでいるがどうしたらいいか?」という、かなり深刻な内容でした。

山河さんからの回答は、「そういう問題は決して少なくない。家族に対しては『苦労を掛けてる』という思いからつい黙ってしまっても、赤の他人であるヘルパーには逆に言いたいことを言いやすいのかも知れない。また、不信感という事について、私も以前に利用者から『ヘルパーは逃げようと思えば逃げられる』と言われた事がある。ヘルパーは、ある時はそうい役(はけ口)になる事も含めて、仕事だと思わなくてはならないのかも知れない。やがて信頼関係が出来れば、『逃げずに良かった』と思えるのではないだろうか」というものでした。

西尾さんからの回答は、「同じ障害を持つ人同士の会というのもあるので、そこへ話をつなげていくというのも手かも知れない。ただ、本人が、情報を聞いても行動を起こさない場合もある。また、本人が外に出ていく事を、周りは求めていても本人自身は求めていない場合もある。だから、むやみに外につなげようとしても効果は無いと思うし、知った様な事は絶対言うべきではない。最終的には本人自身の気付きが大事かな?自分もギスギスしていた時代はあったが、それを受け止めてくれていた人が周りにいた事を、後になって気付いた」というものでした。

質疑応答 理事長のあいさつ


まだまだ中途障害者に対しては、受け入れる事そのものが精一杯の支援で、その先の事にまでは話を発展させていけないのが、現状の様ですね。
これは決して変な脅しではなく、『明日は我が身』という気持ちにみんながなる、先ずは切っ掛けや場があったら、それを機にもっと状況が変わっていくのかも知れません。
西尾さん、山河さん、参加者の方々、当日はどうも有難うございました。



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