2011年度第1回、市民講座を開催しました

テーマ: 災害と障害者 〜災害弱者を守るために〜

2011年7月10日(日)、今年度第1回市民講座が、豊中市立福祉会館3階集会室にて行われました。
当日は、梅雨明け後の猛暑の中、約50名の方が参加して下さいました。

今回のテーマは、3月の東日本大震災を受けて、『災害と障害者 〜災害弱者を守るために〜』と致しました。
もし豊中で大震災が起きたら、介護が必要な人、避難するのに時間を要する人(災害弱者)は、どう身を守るのか?そのための豊中市の取組はどんなもので、当事者の市民としてはどの様な備えが出来るのか?
今盛んに問われている事について、講演して頂きました。

講師として来て下さったのは、講演順に以下の3名です。

豊中市危機管理室 小倉博さん(行政の立場から、豊中市の取組を紹介)
元被災地障害者センター西宮 行岡英敏さん
(阪神大震災当時のボランティアの立場から、体験を紹介)
バクバクの会
(人工呼吸器をつけた子の親の会) 折田みどりさん(当事者の家族の立場から、東北被災地の当事者の現状を報告)

会場全体の様子 タイトルの横断幕

最初は小倉さんの講演でしたが、前半は東日本大震災における被害状況や、地震のメカニズムについて、映像を用いて解説されました。
そのあと、給水や下水管調査・被災者の健康調査のために、豊中市から現地に職員が派遣されたという報告がなされました。

豊中市では、危機的状況が発生すると、応急対策として、その危機の情報の収集と管理、被害の拡大防止、被害者への対応、それに災害情報の発信を行います。

平常時は、市民の暮らしを守る事において、『公助(市役所などの公的機関による援助)』が一番ウエイトを占めますが、想定外の災害などが起こった場合は、公助を行う市役所自体も機能が麻痺してしまいます。
従って、『自助(自らで自分を守る)』または『共助(地域や周囲の人の協力)』も、ウエイトを占める様になってきます。

小倉博さん。バックには東北被災地の画像が。

豊中市が、緊急時に備えて日頃取り組んでいる事は、各種訓練・研修の実施、それに計画作成です。
そして、『自助』『共助』という面において、日頃から市民にお願いしている事は、自主防災組織の結成やその活動の支援、それに、この市民講座で講演する等の広報活動をやらせてもらう事です。

ここで小倉さんより、この場におられる市民に対して、以下のお願いが出されました。

1.我が家の安全対策をきっちりとして下さい。
2.避難場所を確認して下さい。
3.非常持ち出し品を確保して下さい。
4.応急手当の勉強をして下さい。

豊中市では、災害時における情報伝達の一つのツールとして、昨年度、【豊中同報通信システム】を確立しました。これは、市内の全ての小学校に、ラッパ型のスピーカーを設置し、そのサイレンを聞いて避難してもらうというものです。
サイレンは、1分間鳴って5秒止まる、を3回繰り返すという事です。

要援護者に対する豊中市の支援としては、先ず安否確認(事前に要援護者登録をする事が必要。お問い合せは障害福祉課、または高齢者支援課へ)を行い、次に福祉ニーズの把握をしていきます。
指定の避難所での生活が困難な要援護者については、本人の意思を確認した上で、福祉避難施設への緊急一時入所手続を行います。
福祉避難施設が不足しそうな場合は、大阪府へ応援を要請します。

避難所内に於いては、健康状態を把握し、必要な物資の支給とスペースの確保を行います。
その他、在宅時の福祉サービスの継続的提供や、相談窓口の開設、福祉等関係団体やボランティアなどの協力を得て、福祉サービスに関する情報提供をしていきます。
また、巡回による相談受付も実施します。

これらの対応を迅速確実に行うために、平常時から任務の分担と担当者への周知、そして訓練を重ねています。
実施担当班としては、豊中市健康福祉部が、安否確認や災害情報の提供、応急仮設住宅における福祉ニーズの把握などを行うとしており、毎年、計画に基づいた訓練をおこなっているという事です。













次は、行岡英敏さんの講演でした。
行岡さんは、1995年の阪神大震災の際、西宮市で、ボランティア活動をされていました。
当時、住んでいたところは大阪市東淀川区だったのですが、職場が神戸市内にあり、震災で被災した仕事仲間に何とかしたいという思いから、地震発生翌日の1月18日、一人西宮に行ったのが、活動の始まりでした。
西宮で大多数の仕事仲間に会いましたが、一部に行方不明者がいたという事です。

ニコやかでユーモアもあった、行岡英敏さん

間もなく行方不明者の捜索が始められたのですが、地域によって、「こっちが先、こっちが後」という順番付けがありました。
現在では一般的となった『震災ボランティア』という言葉も、当時はまだ無かったという事です(この震災が切っ掛けで一般に定着した)。

行岡さんは、「取り敢えず何が出来るだろう?」と考え、被災している情報を全国に発信しなくてはいけない、と思い至りました。
そして、当時まだ感熱紙のロール用紙だったFAXで、現場から送られてきた情報(同じくFAXで)を、マスコミに流していたのです。
曰く、「何本ロール用紙を買ったか覚えていない」

その後、西宮や神戸の重度障害者や、認知症高齢者を親に持つ人たちが、大阪に避難するという情報をキャッチし、行岡さんも大阪でボランティア活動をする事になりました。
行岡さんは障害者の事を知っていましたが、ほかのボランティアは全く知りません。
その違いをもっと考慮して、周りのボランティアと接すれば良かったと、後から反省したそうです。

2月下旬頃、西宮の障害者団体から、「ボランティアが沢山いすぎて困っている」という話が入りました。
当時、ボランティア自身も、自分に何が出来て何をしたいのか、よく分かっていないというのが正直なところでした。

行岡さんはボランティア志願者に、「あなたは何が好きですか?何が得意ですか?」と尋ねました。
すると、「子どもが好き」、「料理が好き」、「お年寄りが好き」といった答えが返ってきました。
これらの答えをもとに、行岡さんは適材適所、ボランティアに役割を与えていったという事です。


阪神大震災の当時、避難所となった小学校や中学校などでは、和式のトイレが圧倒的に多く、ポータブルトイレの要請が非常に多かった事を、行岡さんはよく覚えています。

いろいろな地方から沢山のボランティアが来ていたために、実はケンカもあったという事です。
その原因は、方言など、言葉の解釈違いや、方言をからかうような態度が見られた事、さらには料理の味付け(関東風・関西風・東北風など)でした。
「曜日ごとに味付けを変えるとか、ケンカにならん様に工夫したらええやん」という意見が飛び交ったとか。

さて、行岡さんが私たちに配ってくれた資料の中から、以下のことをご紹介します。

【阪神・淡路大震災で、『これは失敗だった!』と感じたこと】

・障害者と高齢者を優先的に仮設住宅や復興住宅に入居させたこと
 →要介護の当事者ばかり集められて、介護を出来る人がいない。
・仮設住宅や復興住宅が、一人一人に合わせてバリアフリー化がなされていなかったこと
 →当時はバリアフリーという言葉も一般的ではなかったが・・・・・。
・障害者や高齢者に対する介護の手が足りなかった
 →これからは、ボランティアの人たちが来たら、特別な資格がなくても出来る内容の介護を覚えてもらおう。













最後は、折田みどりさんの講演でした。
折田さんは、医療的ケア連絡協議会でも活動されており、医療的ケアを伴う支援を、普通の支援として普及させていく活動を続けています。

東日本大震災が発生した直後、折田さんはバクバクの会の研修のため、広島にいました。
そして被害の状況が明らかになるにつれ、被災該当地域のバクバクの会のメンバーに連絡(安否確認)を取ろうとするのですが、僅かに携帯に短時間つながった以外、なかなか連絡は取れませんでした。
およそ10日掛けて、ようやく全員の無事が確認出来たということです。

ある、青森県のメンバーから3月24日に来たメールには、以下の様に書かれていました(要約)。
「昨日、避難していた病院から退院した。地震直後は停電になり、電話もつながらなかったが、すぐに訪問看護師が駆け付けてくれて、保健師も様子を見に来てくれた。それから約2時間後、別の訪問看護師が迎えにきて、『電力復旧の目処がたたない事から、発電機がある施設へ避難しよう』と言われた。その後、呼吸器の業者から、『病院に入院出来るから』と連絡があり、無事に避難入院する事が出来た。担当医も、『連絡が取れないから自宅まで迎えに行こうと思っていた』と言ってくれて、有難かった」

現場からの生の話を伝えてくれた、折田みどりさん


次は、福島県のメンバーから来たメールです。
「地震発生時、病院にいて心配だったが、学校の先生が授業中(院内にて)で、看護師もすぐに駆け付けてくれて、無事だった。家も、家で過ごす家族も無事だったが、ガソリン不足のため、家族は毎日は病院に面会に行けない。放射能漏れが出た場合は、病院スタッフも全員避難する事になっている。その場合、治療の順番としては一番最後になると、病院から言われた

本来優先的に治療を受ける必要がある重度の障害者(呼吸管理が必要な障害者)が、順番を後回しにされるのは大変疑問だ、と折田さんは憤っていました。

別の福島県のメンバーからも、地震の1週間後に以下の様なメールが届いています。
「地震に加え、原発事故からくる風評被害により、ガソリン、救援物資も、トラックが被爆を恐れて引き返している。物流が復活するまで、どの病院も備蓄品で頑張ってきたが、現在はどこも、医薬品(チューブやカテーテルなど)の要請をしている。県外へ移動させての対応もしているが、重傷者は移動する事も出来ず、福島県は国から見捨てられた状態」

これら、行き届かない支援に対しては、阪神大震災後に立ち上がった『ゆめ風基金』を通じて、被災エリア内に被災地支援センターを設置し、そこを拠点にあらゆる方面に支援要請を出し、実行に移された部分もあるという事です。

続いて宮城県のメンバーからのメールです。
「すごい地震だった。情報はラジオだけで、ライフラインも支援も何も無い状態。とにかく命があり良かったが、家が半壊だった。人工呼吸器をつけた子や、吸引・注入が必要な子がいる家庭では、水・オムツ・消毒用品・暖をとる物等の確保で手一杯で、家族の食料の調達にも手が回らない状態」

宮城県からは他にも、
「病院に避難していたが、昨日(震災9日後)電気が復旧したので、今から自宅に帰る」、「ライフラインの復旧もまだまだで、街外れに住んでいるので物資の配給も無く、家族と一緒に車で給水に行っていたが、ガソリンも底をついてきた」、「近所でも亡くなられた方がいるが、頑張って子どもを守る」、「ガソリンが少ないので自宅で何とか過ごす。家族に高齢者もいるので、ガソリンが手に入れば、親戚か友人の家、または病院に避難しようと思っている」、「やっと電気が戻ってきたから、呼吸器のバッテリーの問題が解消されて、一先ずホッとしている」といった近況が報告されてきました。

このほかにも、東北・関東各県から多数の報告が寄せられたという事で、茨城県でも、「病院の建物自体が崩壊の危険性有りという事で、入院患者全員が隣の駐車場に避難した。平日なので人手はあったが、寒い日だったので、ICUの患者は近くの薬局に避難した」という事があったそうです。
また、電力確保に関しては、厚労省から都道府県への事務連絡として、『病院が呼吸器会社と連携して、バックアップ機器(発電機)を貸し出す様に』という通知が出されていた様なのですが、結果は充分に伝わらず、市民はたらい回しにされました。

バクバクの会では、当事者(バクバクっ子)のための生活便利帳というのがあり、ここに日常のケアの方法とか日常生活の工夫、それに緊急事態への備えと対処方法が書かれています。
また、年に6回出しているバクバクの会 会報の中で、『ヒヤリハット・ミス・トラブルの事例』や『我が家の防災工夫』というのを載せているほか、昨年12月には、2年掛かりで作成した防災ハンドブックを発行したという事です。
この中で、『緊急時には3日分の日用品を持ち出す』と書かれているのですが、今回の震災を通じて、「とても3日分では足りないと痛感した。でも、それ以上持って行こうとすると、今度は荷物が多過ぎて大変」と、折田さんは話していました。

『備えあれば憂いなし』という事で、バクバクの会のメンバーの中には、日頃より非常時に備えて呼吸器を2台搭載(ストレッチャーに)している人もいます。
しかしその場合、1台は自費レンタルになっているという事で、月に5万円の費用が掛かるという事でした。


最後に質疑応答が行われましたが、その中で、豊中市からの講演は、内容的に不充分で危機感も伝わってこない、という手厳しい意見が出されました。
これに対し、豊中市の小倉さんは、「私としても不充分だったと自認している。今日頂いた意見を充分に受け止めて、市としての対応を検討していきたい」と回答していました。

質疑応答の場面。皆さん厳しい表情をしておられます。 司会を務めた、当センターの上田哲郎


当日、厳しい暑さの中、講師を務めて下さった3人の方々、そして参加者の皆さん、本当にお疲れさまでした。
有難うございました。




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