2011年3月20日(日)、今年度第2回市民講座を開催しました。
ようやく春の息吹が聞こえてくるであろうこの頃(実際はまだ残寒厳しかったですが)、気分を世界を向けて出かけてみよう!ということで、今回は旅をテーマにした講座を企画しました。
ただ、当日9日前の3月11日、東日本大震災が発生し、未曾有の大被害が出ました。
そのため講座開会にあたっては、冒頭の理事長のあいさつで、被災者(中でも特に災害弱者と呼ばれる方々)に対して、お見舞いとお悔やみの言葉を申し上げるとともに、義援金の協力を、参加者にお願いしていました。
当日は受付にて、募金箱も用意しておりました。
受付に設置された、東日本大震災の義援金募金箱 | 理事長の開会あいさつ |
さて、講演ですが、今回講師を務めて下さったのは、西宮市にある自立生活センター、メインストリーム協会の理事長、廉田(かどた)俊二さんです。
廉田さんは中学2年生の時に、事故で車いす生活となりました。
その後、現在理事長を務めるメインストリーム協会を立ち上げるまで、人生はいろいろな意味で旅の連続でした。
その中でいくつもの国への海外旅行があった分けですが、海外旅行に至るまでにも様々なドラマがあり、今回の講座ではその話だけでほとんど時間が過ぎてしまいました。
従って、本来のメインテーマのお話はあまりお届け出来ないことをご了承下さい。
でも、話は面白かったですよ!!
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廉田さんの “旅” は、事故で障害者になった後、身の回りのサポートをするために通ってきていた、お祖母さんの言葉に始まります。
「あんた、このまま一生歩かれへんかったら、結婚出来へんなあ。彼女も出来へんなあ。いや、でも一つだけ結婚出来る方法がある。金や。金さえあれば何とかなるさかい、あんた、頑張って稼ぎなはれ」
・・・・・お祖母さんも言うもんですねぇ(汗)。
廉田さん自身、中学生にしてはおマセだったそうで、事故に遭い、一生車いす生活だと聞かされて真っ先に心配したのが、「オレ結婚出来るのかなあ」だったという事です。
その後、高校生になり、大学進学を目指すも失敗。
「自分はあまり勉強も好きじゃないし、これから何をしていこうかな〜?」と思っていたのですが、そんなある夏の日、家族でそうめんを食べていました。
廉田さんは姫路の出身で、姫路では夏といえば必ずそうめんなのだそうです。
この日は知人が一緒に食べていたのですが、その知人曰く、「この前ハワイに行ってきたんやけど、ハワイではそうめんが無くて困った」
それを聞いた廉田さんは一計を案じます。
「そうや!オレ、ハワイに行ってそうめん屋を開こう。夏はそうめん、ハワイは常夏。オレ、ぼろ儲けや!金持ちになったら、嫁ハンだってもらえる。」
にわかに夢が膨らんでいったのでした。
廉田さんは『そうめん調査』のため、本当にハワイまで飛び立ちました。「ワイキキビーチでそうめん流しをやったるねん(燃)」と心に決めたこのハワイ行きこそが、廉田さんにとっての最初の旅となったのです。
今から約30年前の事でした。
さて、当時、日本の街はまだまだバリアフリーからは程遠い状況でしたが、ハワイでは、既にリフト付きバスがたくさん走っており、車いすのまま利用出来るトイレがあるなど、障害者が一人で街を歩ける環境になっていました。そのため廉田さんは目覚めます。
「一人であちこち行って何かやるのも、なかなかオモロイやんけ」。
講師の廉田俊二さん。一言『タオル巻いたオモロイおっちゃん』 | 会場全景。当日は40名ほどが参加されました。 |
帰国した廉田さんは、本気で商売を学ぶべく、関西学院大学商学部に入学しました。そして、「せっかく大学に入ったんやから、今しか味わえない事をやろう」と思い立ち、またしても “旅” に出るのです。
最初は国内の旅行から開始し、友達と一緒に“貧乏旅行”を行います。
野宿をし、鍋とガスコンロを持参して移動は車という、節約の旅をしていたのですが、北海道に行った時は、車で一周するのにガソリン代がかなりかかるため、その費用を稼ぐべくおこなった事が、何とわらび餅売り(驚)。
わらび餅粉という粉があり、結構簡単に手に入るそうです。それを水でこねたら出来上がり。行く先々で売っていたという事です。
そんな、国内での半自給自足の旅をした後、廉田さんはいよいよ海外へ繰り出します。
初陣はお隣の韓国。ただ、その目的は、ま、廉田さんを知っている人なら驚かないのですが、『合コン』(笑)!何で合コンのために韓国?いや、本人も特に何も分からなかったそうです(謎)。
しかし、勢い韓国に飛んだ廉田さんは、そこでひょんな出会いから人権に目覚める事になります。
現地で泊まっていたユースホステルで、ある2人組の学生(どっちも男)に、合コンの男メンバーを増やそうと(爆)声を掛けたのですが、その2人が実に熱心に人権について勉強したがっている人で、話を聞いている内に感動して、人権に目覚めたのです。実際にはもっと色々やり取りやハプニングがあったのですが、一番面白い部分は廉田さんご本人にアポを取って聞いて頂くとして、ここでは割愛します(笑)。
人権に目覚めた廉田さんは、帰国後、『何か社会的な活動をする』というテーマを胸に掲げて、新たな旅を実行します。それは、【大阪から東京まで野宿をしながら歩き、道中、鉄道(国鉄=現JR)の各駅に対して、『障害者でも使いやすい駅にしてほしい』と働きかける】というものでした。
当時、鉄道の駅にエレベーターがあるというのは、まだまだ稀だったのです。
廉田さんのこの活動は、鉄道のバリアフリー化へ向けての先駆的な取り組みとなりました。物珍しさに当時マスコミも取材に訪れたぐらいでしたが、話題になった直後は駅員も好意的に対応をしても、日が経つにつれて、段々素っ気ない対応に変わっていったとか(嘆)。
この旅を通じて廉田さんは、世の中の、障害者に対する人権意識の低さを痛感し、怒りを覚えるとともに、障害者が自立しにくい社会の環境を、変えないといけないという思いに至りました。
その後、自立生活センターを立ち上げるに至るわけですが、その前に、さらに何ヶ国もの国を旅することになります。
ではその旅はどんな旅だったのか?それが今回の市民講座の本題だったのでありますが、時間切れでほとんど聞くことが出来ませんでした(汗)。
一つ出てきたのはトイレのネタで、「飛行機に乗っている時に、狭い通路を人におんぶしてもらってトイレ行くのは嫌やった」という話や、アフリカでトイレに行った時、該当も何もない中でいきなり黒人に出くわして、『真っ暗な上に真っ黒』でほんまに怖かった」という話がなされました。
また、「80年代に中国に行った時には、向こうのトイレは個室に入ると、首から下が隠れる仕切りしか無くて、お互い顔が丸見えで話も出来た。その逆バージョンもあって、足が丸見えだから人が入っているのが分かる。でも、顔は隠れているから見られなくてOK。」と話していました。
質疑応答の場面ですが、さっき と変わらないですね(笑)。 |
司会を務めた、当センター聴覚障害 ピア・カウンセラーの、赤塚さん |
パソコン要約筆記の方々。 |
最後に質疑応答では、同じ車いすの人から、「一人で旅行に行こうと思っても、段差の問題とかトイレの問題とか、どないするんやろうな?と思うんです。廉田さんはお見受けする限り、上半身の力が強そうだけど、そうじゃない人はどうしたらいいんでしょう?」と、かなり切実な口ぶりで質問が出ました。
廉田さんの回答は、「先ず、あまりビビらんことが大事で、気持ちの問題が大きい。僕は初めてヨーロッパに行った時もアフリカに行った時も、『行ってから考えよう』と思った。それが第一。現地にも障害者は住んでるわけだから、どないかなる。一つ一つ驚く事を楽しむ気持ちで行ったら、絶対にどないかなる」でした。
今回は、あまり海外の話は聞けなかったとは言え、非常に面白おかしく、かつためになるお話を、盛り沢山にして頂きました。
時間が経つのが非常に早く感じられ、もっと時間を取れば良かったかな?と後悔している次第です。
今までに廉田さんは、合計44ヶ国を訪問。合コンから人権まで、実に幅広いテーマが出てきましたが、根本となるテーマは、『障害者が一人で行ける行動範囲を広げる』という事でした。
廉田俊二さん、参加者のみなさん、当日は長時間有難うございました。