2008年7月6日(日)、今年度第一回目の市民講座が、蛍池のルシオーレホールにて開催されました。
今回は、聴覚障害を取り上げました。講師を務めて下さったのは、大阪ろうあ会館登録ホームヘルパーの坂本豊子さんと、大阪盲ろう者友の会副代表の大源應子(まさこ)さんです。
はじめに、坂本豊子さんの講演が行われました。
坂本さんは訊きました。「みなさんは聴覚障害に対して、どのようなイメージを持っていますか?」
ひとくちに聴覚障害といっても、一人ひとり、なった背景は様々で、それぞれの背景によって、必要なコミュニケーション支援も違うといいます。そのことを、ぜひみなさんに分かって欲しいと訴えていました。
ちなみに坂本さん自身は小学校6年(12歳)の時に、徐々に聴力が落ちていったという事で、聴覚障害になった当時は、手話の存在も知りませんでした。
聾学校に入学して、初めて手話で会話をしているのを見て、とてもビックリしたという事です。
ただ、坂本さんが聾学校に入学した当時、本来は学校の中では、手話が厳しく禁じられていました。
会話は専ら、口を大きく開けて発声をし、また相手の口の動きを見て言葉を読み取る、『口話法』が用いられていたという事です。
ところで、みなさんは相手の声を聞かず、口の動きを見るだけで、相手が何を言っているか分かりますか?
それを少し試してみましょうということで、ちょっとした『口話ゲーム』も行われました。
坂本さんが、ある単語を“口パクで”言い、何て言ったかを当てるものだったのですが、予想回答はみなさん、バラバラになりました。
それだけやはり、口の動きだけで会話を読み取るのは難しいという事で、それを当然のように出来ている聴覚障害の人は、本当に並大抵ではない努力を重ねてきた事が分かります。その苦労を窺い知ることは、正直、健聴者には出来ないのではないか?と思います。
坂本豊子さんの講演。手話で話をされ、向かいの席に音声訳をする人が座っていました。それにしても聴覚障害の人は、 声を使わない分、顔の表情は本当に豊かになります。講演の中で、説明のために絵も多用されていました。 |
もう一つ、大変印象に残ったお話があります。それは、「筆談は、みなさんが思っているほど、いつも有効ではない」という事です。
聴覚障害は、視覚障害と同じように、『情報障害』であると言われています。
だから、漢字を見ることは出来ても、正しい意味や用法というのは、思いの外、情報として伝わらないのです。
例えば、病院で座薬をもらうと、漢字の文字自体の意味をそのまま鵜呑みにして、『座って、口から飲む薬』というように理解します。
さらに、『資料』という言葉も、最後が『料』の字で終わることから、『何かの料金で、お金を請求されている』というように解釈する場合が、あるという事です。
『聴覚障害は、目は見えるのだから、書いたらそれで良い』これが、今までの私たちの、正直な考え方でした。しかしこれは間違いだったのです。
そのことが分かったのは、大変勉強になりました。
坂本さんにとっては、筆談よりも手話が一番分かりやすいという事です。
さて、坂本さんは、子ども2人の4人家族なのですが、旦那さんは聴覚障害者で、子ども2人は健聴者です。
ある日、子ども2人がテレビを見ている傍で、坂本さんが洗い物をしていました。そして坂本さんが水道水をたくさん出した時、子どもがテレビのリモコンをさわりだして、テレビの音量を示す数字がどんどん大きくなっていくのが見えました。
それを見た坂本さんは、水道水がステンレスの流しに当たると、大きな音が出るのだと気付き、その後は、水をそ〜っと出すように意識しているといいます。
家族4人で会話をする時は、どうしても聞こえる者同士、聞こえない者同士に分かれてしまう場合が出てきます。今はテレビでも文字が表示される時が多いですが、昔は表示されなかったので、テレビの内容を理解するのは苦労しました。
そして、自分一人だけしか聴覚障害者がいないという環境では、言い様のない孤独を味わっていました。
ところで、冒頭のプロフィールでもご紹介した通り、坂本さんは普段、ヘルパーの仕事をやっておられます。
聴覚障害という特徴を活かして、同じ障害の高齢者の介護をしています。
かつて、戦争時代を体験された聴覚障害・高齢者の中には、字も勉強出来ず、外とのコミュニケーションもほとんど無くて過ごしてきた方がおられました。
しかし、ヘルパーは絵で表現する事で情報を伝え、また、ヘルパーを利用してデイサービスに通うことで、それまでは眠っていた、その人なりのコミュニケーションの力が蘇ってきたという事です。
大変分かりやすく、参加者も一緒に楽しめる講演だったと思います。
坂本さんの、口話訳(手話を声に訳す) の方(中央の2人)です。 |
実に70名近くが参加された、当日の会場風景。 | 聴覚障害者のための福祉機器も 紹介されました。これは、人が来ると ピカッと光って知らせる機械です。 |
2人目の講師を務められた大源應子さんは、もうろう(見えない・聞こえないの両方)の方です。
大源さんは生まれた時から夜盲症という障害があり、夜は見えず、昼間だけ見えていました。耳はもともと全く聞こえませんでした。
だから、言葉を使って話をするというのは、大変難しかったです。
家族や友達など、周りの人たちとコミュニケーションを取る方法が分からず、意思の疎通がうまくいかなかったので、とても悩み、ガマンする生活が続きました。
小学校は普通学校に通っていたのですが、5年生の時に聾学校の先生が家に訪ねてきて、結局その後は聾学校に通うことになり、もう一度、1年生からやり直さなくてはならなくなりました。3年間、ひたすら五十音の発音の練習をしました。
やがて高校に進学しますが、坂本さんの時と同様、当時は手話の使用が固く禁じられており、口話のみによるコミュニケーションでした。しかし高校3年生の時、口話賞という賞を受賞する事になります。
目と耳に障害があっても、美容師を目指そうと思いました。
猛勉強の甲斐あって、見事に国家試験に合格。その時は先生も両親も、涙を流して喜んでくれました。
大源さんは高知県出身ですが、結婚をして豊中に転居し、美容師の仕事をしながら新婚生活を送りました。
大源應子さんの講演。口話と手話の両方を使って 話をし、坂本さん同様、音声訳者がいました。 |
この講座では、大源さんの生い立ちから日常生活までをまとめた、あるテレビ番組のビデオが 紹介されました。右の画像は、拡大読書機で文字を読み取る様子。今でも僅かに視力があります。 |
豊中では、触手話と出会いました。
触手話というのは、通訳が大源さん(もうろう者本人)の手を取った状態で手話を行い、大源さんは、自分の手の動きを読み取って内容を理解するという、大源さんにとって、大変便利なものでした。
30代半ば頃になると、両親も亡くなり、自分の視力も低下がひどくなりました。そのため、美容師の仕事も、泣く泣く断念せざるを得なくなり、また聾者2人だけの夫婦生活とあって、日常生活でも不安な面が多かったです。
以前、見えていた時は、バレーボールやマラソンもやっており、また観戦も楽しんでいたのですが、今は見えなくなり、楽しめなくなってしまいました。ただしマラソンは、伴走者を付けて走ることがあります。
現在、大源さんは制度を利用してヘルパーに来てもらい、買い物など、いろいろ助けてもらっています。
料理も、これまでの経験から勘を働かせて、毎日おいしいおかずを作っています。そのほか、茶道や生け花、陶芸にも興じており、笑いの絶えない環境で、活動を楽しんでいます。
また、スポーツでは、マラソン以外にフライングディスク(いわゆるフリスビー)をやっており、指導者さんに手をつかんでもらったりしながら、距離や方向を伝えてもらっています。もうろう者の中で、今非常に流行っているということですよ。
このように、いろいろな人に助けてもらい、特に触手話を覚えてもらうことで、毎日楽しい生活が実現出来ます。
大阪府では、6〜7年前ぐらいより、もうろう者通訳支援派遣事業が始まっています。これからも、家の周辺の方に障害者を理解してもらい、支援をお願いする一方、社会に於いても、もっと盲聾者に対しての知識と理解が広まってほしいと思っています。
触手話の様子です。これは最後の質疑応答の時。 | 坂本さんの講演などを聞く時には、 参加者席で触手話の人がいました。 |
今回は、初めて聴覚障害について取り上げました。
昨年11月の高次脳機能障害同様、目には見えない障害ということで、今後も当事者の実情が、少しでも多くの人に伝わり、特に当事者が求めているコミュニケーション手段について、理解を示してもらえればと思います。
当日は、暑さ厳しい中を、70名近くの方が参加して下さいました。
講師のみなさん、手話通訳・要約筆記のみなさん、そして参加者のみなさん、本当にありがとうございました。