KSK NPO法人CIL豊中通信 Vol.60 2023年3月号
※今回の号の墨字版は、広報誌創刊号の復刻版としました。

CIL豊中通信 60号

・特集:CIL豊中の道のり、そして今  
・豊中地域情報ばびゅーん!! Part.10
・わくわーく見っけ!! Part.3
・投稿コーナー
・運転免許取得[極秘]プロジェクト Part.6
・哲珍の部屋
・ねや散歩 Part.13 
・サービスのご案内
・CIL豊中 各部門だより
・編集後記


特集:CIL豊中の道のり、そして今

はじめに

 いつも広報誌「CIL豊中通信」をお読み下さっている皆さん、本当に有難うございます。広報誌「CIL豊中通信」は、今号をもって創刊60号の節目となり、同時に今年度をもって創刊20周年の、同じく節目となりました。02年の春頃、創刊号を作成していた頃は、果たして何年続くか、何号まで続くか、想像もしていませんでした。最盛期は年4回発行しており、年中忙しい広報誌生活であったことが、今となっては懐かしいです。17年10月発行の通算50号では、大きくモデルチェンジも行いました。今後、CIL豊中通信はどう歩んでゆくのか?作成に携わるスタッフや、歴代編集長(3人)にインタビューを行いました。
 なお、現広報誌創刊以前は、「機関誌マイライフとよなか」という通信を定期的に発行していましたが、ここでは現広報誌のみを対象とします。
 さて、NPO法人CIL豊中も、前身の団体である「障害者自立生活援助センター・とよなか」が93年春に発足してから、30周年を迎えました。02年4月1日付けで、NPO法人CIL豊中として再スタートを切り、翌03年には、「ヘルパーステーションCIL豊中」と「豊中市障害者自立支援センター」の2つに事務所が分かれました(2事業所が開設)。07年に訪問看護ステーション、11年には児童デイサービス「ボーイズ&ガールズ」がそれぞれ開設。22年に少路障害者相談支援センターが開設して、現在5事業所による運営となっています。時代と共に規模が大きくなれば、当然スタッフの数も増え、「CIL観」や「CILらしさ」を今一度認識し直す機会も、必要となるかも知れません。その意味で、今回の特集が少しでも切っ掛けになればいいなと思いました。
 皆さん、今回は非常に固い内容にはなるかも知れませんが、是非最後までお付き合い下さい。
 
第一章:広報誌20周年60号
                
◎編集スタッフに聞きましてん
Q1.日頃、一番力を入れている事は?
西村「毎回ではないですが表紙デザインを担当しているので、皆さんに手に取ってもらえるようなデザインを心がけています」
塚原「解り易い文章で、みんなに読んでもらえることを試みている」
上田「やっぱりCILだから、運動的な部分を前面に出して書こうかなと思っている。今、国は福祉や教育への予算をどんどん削って、防衛・防衛やから。運動しないと、いきなり福祉の予算を削られて、ヘルパーの単価も下げられて介護職が減っていく。そうなれば、重度の人は生きられなくなる」
丹田「わくワークを担当したが、新しい場所を紹介したり、前向きになれるような記事を出したくて取材している。特に就労に関して」
大岩「最初の頃は、読みやすさとカタくならないということを一番意識して書いてたけど、最近は、地域の障害者にとって生活に役立つこととか、これがあるんだよということを伝える記事、読みやすさから伝える記事へと変わってきた」
瀧本「今は自分の連載記事で一杯一杯。私は文章書くのが苦手過ぎて、根箭さんに色々赤を入れられて大変やったという記憶しかない」
根箭「創刊の頃はまだSNSも無く、ホームページが発展期だった。だから冊子版もだけど、特にホームページ版では全面カラーで大きな写真とか、見やすさを楽しんでもらうことにこだわった。苦手な工程は勿論あるけど、自分の特技も活かしながら社会参加を充実させる上で、広報誌は生き甲斐でもあった。貴重な特技を活かせる反面、熱くなり過ぎた点は反省」
Q2.最も印象に残る取材や記事は?
塚原「えりとママの珍道中記(第11号まで連載されていた、重度脳性麻痺の筆者の子育て日記)」    
上田「日本ライトハウス盲導犬訓練施設取材(第14号特集)や、権利条約の記事(第20号特集)」
丹田「過去号を読んで印象に残ったのは、障害者自立支援法の動きを色々追った記事」
大岩「入職間もない頃、基幹の研修に行った報告記事(第48号)。東先生が医学モデルと社会モデルの違いを解説されて、最初は『どういうこと?』という感じだったのが、文章にしたことで腑に落ちた」
瀧本「株式会社きると(第39号特集)に行ったのが印象に残っている」
西村「【夜もええやん】の特集(第54号)。自分だけでなく他の担当者も夜を楽しんでるというのが凄く伝わってきて、とても良かった」
根箭「出生前診断の特集(第44号)で、阪大病院遺伝子診療部に行ったこと。単身、こんな凄い所まで乗り込んできた!と、緊張で身が震えた」
Q3.五年前に大幅なリニューアルを 実施したが、その経緯は?
大岩「リニューアル前は、手に取って読もうとはなかなか思わないなぁと。で、変えようと思って、先ず職員にアンケートを取ったら、変えたほうがいいと思っているのは、僕だけじゃなかった。だから変えることになったが、そうなると制作過程が大幅に変わる訳で、当時はイラストレーターも使っていたので、いけるかな?と」
Q4.思い出される苦労話や裏話は?
上田「最初に書いた記事を、根箭に赤ペン先生か思うくらい、頭から最後まで真っ赤っかにされた(怒)」
大岩「僕の記事をチェックしていた職員(根箭じゃないよ)に、『前半は面白いけど、後半は全然大岩君らしさが無い』という、すごく抽象的な注意を受けたことがあった」
塚原「手が動かなくなり、パソコンを自由に打てなくなったのが苦労」
西村「最初は事務所で参加、その後オンラインになり、オリヒメに。その全部を経験出来たのが良かった」
瀧本「文章を書くのが苦手過ぎて、根箭などに赤ペンを入れられて苦痛だった。広報誌編集員からどうやったら抜けられるだろう?と」
大岩「一番いいのは、編集長になってみんなに書かす。『何で私が書かなアカンねん!』と言って」

◎歴代編集長に聞きましてん
Q1.編集長を務めていた時期は?
鍛冶「2008年6月~10年3月」
赤塚「2010年4月~13年6月」
根箭「2016年4月~現在」
Q2.当時、最もこだわっていたり、気を付けていたことは?
鍛冶「豊中の情報を発信させること」
赤塚「あまりにも堅苦しかったので、柔らかい感じにして読みやすさに重点を置きたかった」
根箭「個性や特色があり、読み応えがあって、レイアウトも整っていること。勿論記事も充実している。毎号、ルビミスや誤字脱字を限りなくゼロにするんじゃ!と、飽くなき執念を燃やしてきた」
Q3.苦労した思い出や、良かった(楽 しかった)思い出は?
鍛冶「広報誌は、僕にものを書くということを学ばせてくれた。編集長になって、毎回編集後記を書くのは苦労したかな。僕は西宮のメインストリーム協会で働いて13年になるけど、今の仕事では文章表現をする機会が多いから、文章力が必要という意味では役に立った。会議のレジュメも、僕が手で書いて根箭さんがパソコンで清書していた。まだ若かった分、仕切ったり話をまとめるのが下手で、編集会議の前は気が重かった」
赤塚「私は形ばかりで、ほぼ根箭さんが動き回っていた印象。いつも皆さんに助けられていた」
根箭「ルビチェックや校正は毎回忍耐勝負。作業中のパソコンの不具合もお約束で、時々ストレス大噴火。イラストレーターで入稿データを作るので、扱いを覚えるまでは苦労した。新しい号を創り始める時期は常に[産みの苦しみ]で、これは宿命。完成形のイメージが見えてくるまでは焦りとの闘いで、出口無きトンネル。誌面に収まるよう、泣く泣く文章を削ってもいる。会議も苦手だから、編集会議前はメチャメチャ緊張する。けど、案や形が出来てきた時、漸く完成を見た時の安堵感は、何ものにも代え難い。昔はHP版も一から作っていたが、短期間内に工夫するのは楽しくもあった。最近何号か漫画 の作成も担当し、絵の才能が全く無いので死ぬほど苦労した」
Q4.当時の制作工程は?
鍛冶「そんなに絡んではいなかったので。発送の時は、郵便局に集荷の連絡はしていたけど」
赤塚「パソコンで処理や作業をしていた様な・・・・。これも根箭さんが」
根箭「創刊初期は、印刷・折込・頁組みは全て自前で手作業。ボランティアにも来てもらっていた。その後は印刷業者に依頼するようになったが、割付などの細かい作業が多かった。現在はデータを一括送信。HP版も、PDFとテキストデータ公開となり、ずいぶん業務がスリム化された」
Q5.今の広報誌や編集長に対して、メッセージは?
鍛冶「すっかりデジタル化もされて、綺麗になったと思う。ここまで作るのは凄い労力が要るだろうなぁ、と。たまに読むと豊中を思い出させてくれる。最近の若い当事者は、親元でも充分暮らしていけるから、自立をしたがらなくなっている。一般就労に憧れて、自立生活センターで働くことを丸で負け組みたいに捉えているのが悲しい」
赤塚「最近の広報誌は読んでいないので分からないが、年々障害者の自立と社会参加が増えていると感じ、喜ばしく思う。皆さんの声をドシドシ載せていければいいか、と。頼りない編集長で皆さまにご迷惑をかけ、申し訳なかった」
根箭「これからもクオリティーを上げ続けていきたい。創刊号から一貫して全ての漢字にルビを打っているが、これにも賛否の意見がある。良い着地点を探したい。今の編集長へ。しっかりせい!以上」

◎理事長に聞きましてん
Q1.創刊初期の号と最近の号を読み 比べてみて、感想は?
 広報誌の形状は変わらないが、見た目は大きく変わった。カラー化や編集の高度化も進み、一般書店の冊子コーナーに並んでいても違和感がないと思う。広報誌の意匠(デザイン)は、行き着くところまで来た。
Q2.創刊号の企画会議に出席してい たが、その中で記憶に残ることは?
 創刊の企画会議には、任意団体からNPO法人になるにあたって、会員向けから広く公益的な広報誌になるようにと意識していた。新しいものを創ろうという、皆の熱意を感じた。
Q3.創刊当時、何に力を入れ、どんな広報誌を目指していた?
 福祉制度や啓発記事に加えて、独自取材にも力を入れ、地域に有益な情報を発信したいということを話し合った。
Q4.作り手に「もっと、こういう ことにこだわって!!」と思う点は?
 コロナ禍で取材ができない時期が続いたが、独自取材に力を入れて、「載っていそうでどこにも載ってない」ような、キラリと光るタイムリーな記事にこだわってほしい。
Q5.4以外で、今後へ向けての期待 や課題だと感じていることは?
 広報誌は当法人の顔であり、利用者・スタッフ・地域を繋ぐコミュニケーションの場でもある。福祉制度や人権や身近な情報をタイムリーに掲載し、貴重な時間を使って読んでくれる読者の皆様に、読んで良かったと思ってもらえるような広報誌を目指してほしい。

第二章:CIL豊中30周年

◎各部門代表に聞きましてん
Q1.当法人に「CIL」と名が付いている意味と、当法人の理念は?
[ボーイズ&ガールズ]      
  自立支援センターという意味で、障害当事者主体のサービス機関。どんな障害を持つ人も、地域で自立した生活を送ることを目指している。
[ヘルパーステーション]     
「Center for Independent Living」 直訳すると「自立生活センター」。意味はどんな重い障害を持っている方であっても、地域で普通に自立生活出来る社会の実現を目指す、とある。
 一見、「なるほど。親元や療養入院で生活している方が、自立をすることね」と捉えていたが、実はなかなか深いものだと気づかされる。
 前述の「地域で普通に」の、「普通に」という言葉、とても深い。
 人が変われば普通も変わる。私の常識は世間の非常識。今は亡きアントニオ猪木の名言であるが、これは誰にでも当てはまることだと思う。
 当事者もヘルパーもそれぞれの普通を持ち、生きている。その人の、その人らしい普通とはどういったものなのか?それを形にすることが当法人の理念ではないだろうか。
[訪問看護ステーション]
 障害当事者が運営主体となり、障害を持っている人もそうでない人も共生出来る社会の実現を、目指した事業活動を企画運営していくこと。
 誰もが公平に基本的な生活が出来る社会になるよう、働きかける活動。
[事務局]           
 意味→Center for Independent Livingの頭文字をとってCIL。
 理念→どんなに重い障害をもつ人も、地域で普通に自立生活できる社会の実現を目指して、自立生活及び権利擁護に関する事業活動を、障害当事者が運営主体となって行う。
[支援センター]         
 歴史や意味として言えば、当事者が主体となって運営する組織。CILは本来、運動団体でもあるが、ウチは相談支援事業所でもあり、委託事業なので行政と距離は近い。尚かつ運動団体ということで、この点を客観的に観ると、委託事業所が運動団体って歪に映ってしまうかも知れないけど、そこはウチの強みでもあると考えている。支援する上での基本的な考え方は、CILだからこそ当事者目線を強く持って、行政としっかり話しながら役割を果たしたい。
Q2.同じ事業所でも、「ここはCILなんだ」と実感する瞬間はある?
[ボーイズ&ガールズ]
 一人一人の個性を大切にするところ。
[ヘルパーステーション]
 明確にはないと思うが、制度の範囲内でどうするか?ではなく、その人らしく暮らす上で必要なことが、制度内で出来ない場合どうしていくか?を作り上げていく姿勢がCILだと思う。
 現行の制度も、その時々の要望、つまり、現場の声を反映させて作られていった部分がある。
 これまでも、病院にしかなかった医療機器を家庭で使用できるようになったり、スマホやさまざまな技術の進化により、当事者の暮らしにも多様性が生まれ、行動範囲だけでなく、その人の能力の具現化が可能になってきた。その時代にアジャストした制度を作ろうとした時、現場からどんな声があるのか?CILは、より多くの声を届ける役割があると思う。
[訪問看護ステーション]     
 障害当事者と共に事業について意見交換を出来るところ。それぞれが考えを出し合い、協議が出来たときは、CILとしての方向性が作られている、という感覚になる。
[事務局]
 決定権の多くが、当事者の人にあるというところかな。
[支援センター]
 ピア・カウンセラーがいるところと、ピアカン会議があるところ。
Q3.入職当時と現在で、ここで働く上での心境・意識に変化はあった?
[ボーイズ&ガールズ]
 特になし。
[ヘルパーステーション]
 私は入職以前、他業種にいた為、福祉の事、障害当事者との関わりはなく、正直な所、入職当時は驚きと衝撃の毎日だった。今思えば、障害者と健常者という「差」を私自身が持っていたからだと思う。
 年月を重ねるにつれ、「差」が「違い」に変わり、さらに「障害当事者と健常者の違い」ではなく、人それぞれの違いという思いに変化していった。そういう考えになったのは、多くの人が当たり前に出来て私には出来ないことや、私にとっては壁でなくても他の人にとっては大きな障壁となることがあったから。自分が関わる全ての人に得手・不得手があり、関わりが深まればお互いが相手の特性を知った上で、フォローしたり時には叱咤したりと、今までも関係を築いてきた。つまり違いは当たり前。出来る出来ないだけではなく、我々が生活する上で使用している物、利用している事、すべて私には作れない物を人に頼って生きている。それと変わらないのだと、いつからか思うようになった。それが意識の変化のように感じる。
[訪問看護ステーション]
 前職の事業所の時に、同じ利用者にサービス提供をするチームの一員として、初めてCILの存在を知った。CILの、利用者に寄り添ったサービス提供に感銘を受け、一緒に働いてみたいと思ったのが入職のきっかけ。一人一人の価値観や考えは、障害の有無に関わらず違っていて当たり前で、それを認めつつ協働することが重要。それはサービスを提供する側と受ける側の関係性においても同じで、話し合うことが重要だと感じた。
[事務局]
 最初から当事者主体団体と理解していたので、心境や意識に変化はない。
[支援センター]
 僕は元々CIL豊中では利用者で、仕事は個人事業をやっていた。利用者の立場から勤め始めて、今の立場(管理者)になって、考え方は変わった。元々は、障害者運動には関心が強くなかったが、今では重要性が解ってきた。今の立場になったら責任も出てくるし、一相談員という立場だったら、そこまで深くは考えていなかった。僕はリフレーミング(発想や視点を変えること)が苦手だが、色々研修に行ったり経験を積んだ中で、変化してきたのかな。
Q4.ターニングポイントとなった出 来事は(それ以降どう変わった)?
[ボーイズ&ガールズ]
 ボーイズ&ガールに異動になったことで、本人だけでなく、家族支援の重要さを再認識させられた。
[ヘルパーステーション]
 前述のとおり、前職までは介護・福祉とは無縁の世界にいて、転職の際も、介護業界は想定していなかった。では、何故今この業界に身を置いているのか?それは自身の入院。
 20数年前、ちょっとした怪我で1週間ほど。人生で初の入院。病室は6人部屋で、私以外の全員が高齢者だった。初日の晩、今思えば皆さん認知症で、夜通しベッド柵をガチャガチャと揺らす音。叫び声。便処置。私の「入院ついでに休暇」なんていう浅ましい考えを一蹴するかの如く、一睡も出来ず。とても耐えられなかった。
 部屋の移動を申したがあっけなく玉砕し、2日目の晩。初日と同じ状況の中、ある変化があった。
 2日目の日中、看護師さんと皆さんの、ちぐはぐながらも軽妙なやりとりを、微笑ましく眺めている内に受け入れられて、ぐっすりと眠る自分がいたのだ。あの入院がなければ、介護に興味を持つ機会があったかどうか?自分の中で、介護というものにフォーカスが合った出来事だった。
[訪問看護ステーション]
 サービス提供者として、利用者の気持ちを考えながら実践している。当事者としての経験がない分、想像でしかない部分があり、利用者でもある障害当事者の職員からの意見はとても参考になる。その意見が欲しくて、いつも相談している。
[事務局]
 ターニングポイントは入職したときだろうか。それ以前は「CIL」という言葉自体知らなかった。
[支援センター]
 僕は養護学校出身で、あまり養護学校を否定するスタンスではなかったが、今は仕事を通じて、インクルーシブ教育とか、地域の学校に行くという意味が解ってきた。地方の障害者の実態を取材する記事にも関わったが、色々特徴が解った。ピアカン講座を受けた時も、「感情の解放」というのがめちゃくちゃ嫌だった。何故なら僕は元々、人の顔色を窺って生きてきた人間で、自分の感情=隠すという認識しかなかったから。だけど受けてみたら、自分が変わった。
Q5.今後はCIL豊中職員として、どういう方向でやっていきたい?
[ボーイズ&ガールズ]      
 個性を大切にしながら日々楽しく、穏やかに暮らせるような支援をしたい。
[ヘルパーステーション]
 息長くやっていくには、「今まで通り」を目指したいところだが、入職当時と比べて介護業界、特に訪問介護職員の人手不足が深刻になっている。有効求人倍率も、他業種で平均4~5倍のところ、ホームヘルパーはなんと15倍。1人の求職者に対し、15社が取り合うことになる。当法人に入職される人も、ほかで介護業をしていた人で、他業種から入った私のような人は、近年ほとんどいない。
 国や行政に、処遇改善などのさらなるテコ入れをお願いしつつ、他の14社よりCILという特性を存分に活かして働いてみたい、と思われるよう、魅力を高めることを目指したい。
[訪問看護ステーション]
 共生社会を目指して法律も整備されてきたが、まだまだ日本社会での公平さは発展途上。法人として、SDGsにある社会の実現に寄与出来るよう、CILらしく、パートナーシップを発揮して事業を行っていきたい。
[事務局]
 職員同士お互い助け合いながら、よりよい介護サービスが提供出来きるよう、裏方として努力していきたい。
[支援センター]
 もっと権利擁護のこと等、当事者団体としての動きも見せなくては。当事者自身が動いて終わり、ではなく、働いている職員に向けてどんどん発信していかないと、CILらしさは薄れかねない。CIL色を濃くするために、何か産み出してみたい。相談支援がどんどん大きくなり、業務がすごくビジネス化してきた中で、CILという部分が薄まってきていると感じる。この「ビジネス化」というのは凄く難しい部分で、もしビジネスという点だけで考えるなら、ここの管理者が当事者である必要は無く、マニュアルさえ固めればロボットでもいい。動ける範囲も法律内でとなるが、マニュアルや法律以上に、当事者が主体でやっている意味に応えられる事業所にしていきたい。現状の相談支援に対する処遇の改善も望まれるところで(国が定める委託単価が低い)、その意味では運動体である必要があるし、国にも強く言っていかないといけない。

◎理事長に聞きましてん
Q1.前身の団体設立以来の、CIL豊中の基本理念や指針は?
 前身の団体「障害者自立生活援助センター・とよなか」から続く「特定非営利活動法人CIL豊中」の基本理念・指針は、ホームページに掲載している設立趣旨書のとおり。大切なことなので、私は時々読み返している。
 ★★以下、設立趣旨書抜粋☆☆
 [私たちは、どのような障害を持とうとも、自らの意思と責任に基づき、どこに住むか、いかに住むか、生活スタイルを選択する権利がある。制限があるならば、障害を持たない人が受ける制限を超えるものであってはならないと考える。しかし、多くの障害者は子ども扱いされ、自立した人格としての経験を積む機会を奪われ、生活の場も選択する余裕もなく、家族の下か施設に限られているのが現状です。
近年、在宅福祉サービスが見直されていますが、障害者の自立生活を支える視点でサービスを提供できる機関は、ほとんどありません。これまで私たちは、障害当事者がサービスを提供する側に回ることで、より障害者のニーズに応え、質の高い自立生活ができると考え、障害当事者が運営主体となり、サービスの提供をおこなってきました。
 私たちのこれまでの活動をより一層充実化し、障害者が地域で自立生活を営んでいける社会の実現を図るため、特定非営利活動法人CIL豊中を設立するものであります]
Q2.現状のCIL豊中は、どの様 に映るか(各事業所に対して)? 
 現状を評価するのは、利用者の皆さんや会員の皆さん、地域の皆さんだと思う。ただ、各事業所について、私の思うところを少し述べる。

<豊中市障害者自立支援センター>
 ピアカウンセラー(障害当事者スタッフ)と健常者スタッフが協力して、日々の業務を行っている。計画や委託相談や外出支援が主な業務になっていて多忙である。相談支援等の実務を通じて、地道に障害者の権利擁護を積み重ね、拡大することが大切。
<ヘルパーステーションCIL豊中>
 前身団体設立時から必須の、介護部門である。制度がない時代から多くの障害者(児童から高齢者、軽度から最重度まで)の介護を担ってきた。この継続性は、まさに地道な努力の積み重ねであるが、近年、慢性的なヘルパー不足からニーズに応えきれないことが少なくなく、人材確保に苦戦している。
<訪問看護ステーションCIL豊中>前身の団体時代から、医療が必要な障害者の自立支援を行い、医療と介護の連携をいち早く実践してきた。その中で訪問看護を開所したのは、自然の流れだと言える(自立生活センターで訪問看護を併設している団体は極めて稀)。他の訪問看護事業所が消極的な重症児等の在宅生活にも、積極的に取り組む意識とスキルの高さがある。
<ボーイズ&ガールズ>
医療的ケアが必要な重症児の生活の場は限られていた。対応できる民間事業所が地域に無かったからである。
そんな中、先駆けになればという思いで、11年前に医療的ケアに対応できる児童デイサービスを手探りで開所した。今では医療的ケア対応の民間事業所が地域に数ヶ所でき、頑張って開所して良かったと思っている。
Q3.30年で、CILにとって大きな転機となった出来事トップ5は?
○豊中市障害者生活支援事業開始(豊中市委託)
 事務所や固定費を賄える財政基盤ができた。
○法人格を取得して特定非営利活動法人CIL豊中となる
 制度が措置から契約に大変革するにあたり、団体の法人格は必須だった。
○支援費制度ヘルパー派遣事業開始
 障害福祉が指定事業になり、利用者及びヘルパーが大幅に増加し、事業規模も拡大していった。それと並行して、福祉制度もどんどん複雑化していった。事業も人も増え、法人の管理運営に格段の労力が必要になった。
○蛍池中町に移転
 現在の拠点である蛍池に移転した。
○初代代表「大友章三」逝去
 私にとって初代代表は、この活動に導いてくれた唯一無二の存在である。
Q4.今聞けばビックリする、設立初期は当たり前だった習慣や常識は?
○障害当事者は全員無給、健常者スタッフは有償ボランティア的な安い介護料のみの収入。
○活動資金がないため、街頭募金や煙草自販機の管理もしていた。
○入浴介助は介護者も一緒に入浴していた(もちろん同性介助)。
○介護者は利用者宅で一緒にご飯を食べていた(会員制互助団体の同志という色が強かった)。
Q5.将来に向け、内外にメッセージを
 CIL豊中は、「どんな重度の障害があっても地域で生き生きと自立した生活ができる社会の実現」のために存在する。全ての活動や事業はその目的に必要であり、大切なもの。今のCIL豊中は、長年の努力の結果として形作られたと言える。これからも地域の拠点として、出来る限り障害がある方の地域生活をサポートしたい。
 私もいつの間にか年齢を重ね、高齢者に近づいている。将来のCIL豊中は、次世代の障害当事者が健常者職員と力を合わせて(CILの最大の特徴であり、力の源)創っていってくれると信じている。そのための次世代の育成にも力を尽くしたい。

     ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※
 
 以上、長い特集にお付き合い下さり、有難うございました。常に実感していることですが、広報誌は一人の力では絶対に作れません。周りからの意見・提案に助けられ、初めて完成を見ています。今回の特集作成に当たっては、多くの方に取材にご協力頂きました。全員の名前は記載出来ていないのですが、時間を割いて下さった皆さんに、厚く御礼申し上げます。
 (担当:根箭)


豊中地域情報ばびゅーん!!
 
 みなさんこんにちは。
 今回は、昨年4月から始まった「通学支援」という豊中市の制度について、ご紹介します。みなさんはこの制度をご存知ですか。
 読んで字の如し、通学を支援するという制度です(笑←そのまんま)。
 具体的には、保護者の体調やお仕事等の理由により、ひとりで通学が困難となる障害のある児童に、ガイドヘルパーの派遣を行えるというものです。
 豊中市の移動支援では原則、通学を目的とする利用はできませんでした。
それがこの「通学支援」ができたことで、制度として通学にヘルパーが付き添えるようになりました。そしてそのヘルパーの調整等を、各地域の障害者相談支援センターに所属する、通学支援コーディネーターが行います。当センターも、少路障害者相談支援センターとして、多くの通学支援に関わらせてもらっています。
 市役所から「申請があった」と連絡を受けたコーディネーターは、まず本人からどんな通学をしたいのか聞き取ります。家族や学校にも状況を聞きながら、本人の希望する通学に応じてガイドヘルパーの調整を行い、通学支援計画書を作成する流れになります。
 では、通学支援というのは「通学に必要なヘルパーを調整するだけのものか?」と言えば、そうではありません。
 通学支援は〈本人の希望する通学〉を本人・家族・学校・福祉で一緒に考え、実現を目指すことが目的です。もちろん、通学支援計画書を提出した後も、モニタリングや更新を重ねますので、その都度本人の気持ちを確認しながら、その時に合った通学の形を考えていくことができます。
 本人の希望する通学をみんなで考える、とてもいい制度ではありますが、

ガイドヘルパーの面でいえば課題もあります。それはヘルパーが見つかりに
くいという点です。
 通学はどうしても、早朝や夕方といったヘルパーが見つかりにくい時間帯での利用となってしまいます。ヘルパー事業所を探しても調整がうまくつかず、すぐには利用できないということにもなってしまうかもしれません。
 前述の通り、通学支援はヘルパー調整が目的ではないので、もちろん見つからないのであれば、その中でどうすれば通学できるかをみんなで考えますが、ガイドヘルパーが付き添うということはこの制度の要になりますので、この現状は課題だと思います。
 新しい良い制度なだけに、豊中市にはこういった課題にも積極的に取り組んでもらいたいです。始まったばかりの制度ですので、今後のより良い発展を切に願います。
(担当:大岩)


わくワークみっけ!!
サボテンに癒される作業所 sabot (サボット)  
豊中市庄内西町1丁目1-1     TEL:06-7897-0011
                                                      
 豊中のユニークな事業所を訪ねる旅。第3弾は、昨年オープンした庄内駅前の就労継続支援B型sabotを、お訪ねしました。「最終的にサボテン」という意味深な看板のおしゃれなお店の中で、皆さん黙々と作業をしていました。この日は社長の大山さんにお話をうかがいしました。

Q.利用者は何人で、どんな方々ですか?
ここの一日の流れを教えてください。
A.定員20名中登録18名で、平均年齢は36歳です。1日8~10人の方が利用されています。精神の方が多いですが、知的の方も、身体の方も大歓迎です。皆さん、ここのチラシを見て計画相談の人に紹介されたり、直接見学に来られた方々です。全員豊中市在住の方です。朝10:30の朝礼で、その日の一人ひとりの作業内容を確認します。商品を店の前に出して作業開始。
 12:30 から13:30まで昼休憩をとり、15:30終了・帰宅です。今のところ利用者さんは全員、自転車等で通っています。
Q.B型の事業を始めようとされたきっかけをお聞かせください。
A.もともと私(大山)がメンタルが弱く、メンタルを鍛えるには植物を育てるのがいいと聞き、挑戦しました。ことごとく栽培に失敗しましたが、最終的にサボテンなら、手間もかけず育って増えてくれて、自信をとり戻せた経験があるのです。それで障害のある人にも、サボテンで自信をつけてもらえたらと思ったのがきっかけです。私はネイリストで、親会社のネイルサロンを経営していますので、ネイルサロンで使うコットンやアルミホイルを小さく切る作業を、B型の作業として確保できると思ったこともきっかけです。
Q.現在、作業はをどんなことをされていますか。またオリジナル商品はありますか。
A.サボテンの鉢に植え替える土の配合や植え替え、剪定、水やりなどを利用者さんにやってもらってます。内職的な軽作業やネイルの下準備、週1回豊中市内のビル清掃に行かれる方もいます。一人ひとりの利用者さんの強みと弱みを自分で分かってもらい、仕事を通して「障害ごと自分を好きになってもらいたい」をモットーにしています。オリジナル商品は、水苔に植栽した観葉植物を壁掛けできるよう、家具調の着生板「ビカクベース」を作っています。
Q.商品はどうやって販売されていますか。作業工賃はいくら位ですか。
A.サボテン専門店というと全国的にも珍しいので、ネットで関東・九州の方も注文されます。工賃は、時給150円からにしていますが、外部清掃に行かれた方には500円加算するなど、その人なりにアップもしています。
Q.社会との接点・交流ということで意識されていることはありますか。
A.この店舗でのイベントや、庄内神社・大阪経済大学のお祭りへの出店などで、利用者さんに接客をしてもらっています。
 また、サボテンの鉢をろくろで作成し、さらなるオリジナル商品にして、今後サボテンの作業がメインになっていけばと願っています。
(担当:たった)


投稿コーナー

みなさん、こんにちは!このコーナーでは、俳句・川柳・コラム・自立生活レポート・大喜利・写真で大喜利など、みなさんからの投稿作品をご紹介しています。今回もたくさんの投稿作品が集まりました。投稿して頂いたみなさま、本当にありがとうございました。各カテゴリで一番面白かった作品には「☆」が!?
※全ての作品をご紹介できない場合がございます。あらかじめご了承下さい。

短 歌・俳 句 
◯完璧な 佇まいなり バス停や 「路線休止」の 表示あるのみ 
◯学生の 頃より進歩 ゼロなれど 齢は今年で 五十路なりけり   
                〈当事者B さん〉

◯春日和 日付変われば 吹雪なり 
                  〈常夏の島 さん〉


川 柳 
◯ハイ!チーズ あ!忘れてた 主役ロボ 
                〈ヒコボシ さん〉

◯日替わりか モグラたたきか 忘れもの 
                  〈定食屋 さん〉


コラム

まさとの一日

「すいませ〜ん!きっぷを通してもらえますかぁ?」
 大声を張りあげると、ヒジ掛けと背もたれで肩ぐちまで頑丈に守られていても、硬直で絶壁頭が左右にぐらつく。
 駅員室からアカぬけた面長が首を伸ばした。
 「こっちで改札を開けておきますから、そのまま出てください」
 ところが、ソフトな物腰を追いかけて、大阪のおばちゃん風のダミ声が割って入った。
 「このコォ、ウチの近所でよぉ見かけるコォやねん」
 ここまで駅員対応だったおばちゃんが、電動車いすのヒジ掛けに目線をあわせてかがんでいる。
 ズングリムックリにしては、身のこなしにムダがなくて、すばやかった。
 「おにいちゃん、きっぷはどこに持ってるの?おばちゃんにちょうだい」
 今度は猫なで声だった。
 ぼくの気持ちは、トゲトゲになった。
黙ってふり切るにはケガをさせたり、よけいに強情にさせたりするリスクがある。
 平日の午後といっても、ちらほらと人は行き交っている。
 ときどきチラ見されたりもするから、みっともないマネはできない。
 ぼくは深く息を吸ってから、聴き取りやすさを意識しながら、言葉をまとめた。
 「大丈夫です。よくあることなんです」
 だけど、口元がこわばって、うまく発音できなかった。
 おばちゃんは車いすの内側をのぞき込み、いよいよたたみかけてきた。
 「おばちゃんな、ヘルパーさんの資格持ってるんやで。痛いこともせぇへんし、おカネ取るようなバカなことはしないから、安心してちょうだい。おばちゃんは《頑張っている人》に出遭うと、ついつい、お節介をやきたくなるんよね」
 いつのまにか、猫なで声はつぶやきになり、《ぼく》へ向けてから、自問自答に矢印は変えられていた。
 ウルウルしはじめたおばちゃんのふくよかな鼻先を横目でつまみながら、握りしめていたきっぷを太ももの上に落とした。
「それじゃぁ・・・」
「これやね」
 おたがいの言葉が重なったあと、クシャッとなったきっぷはひろい上げられ、まるい指先で丁寧に伸ばされて、改札を通った。
「あとは大丈夫やんなぁ。おばちゃん、あんたのシブチンな横顔見て《ガンバリ屋》じゃないって、直感したんよね。ついでに、ウチも《おなじ穴のムジナ》やって、ハッとしたんよね」
 照れ隠しなのか、刈り上げ頭をなでまわした。
「さっき《あんた》って、言ってくれたでしょ。それから《ウチ》って、言ってたでしょ。なんか、うれしかったわ。ついでやけど、若いころ、よくモテてはったでしょ。そのころに、ぼくが2〜3才逢いたかったな」
「わたしはフリーよ!じゃぁ、またね!」
 軽く片手をあげて、スギ花粉と黄砂にかすむ街へ消えていった。
 ふりむくと、駅員はのりこし客の対応に追われていた。
〈海帰優人 さん〉


どんぐりのひとりごと

はーい。皆々様お元気でしょうか?今年の冬も厳しいですね。どんぐりも御年60いくつになってきました。あ~~~どうしましょう。ほんまにあきまへんなー老化とは、こんなものだったんですね。あはは・・・・・。
この広報誌も、CIL豊中の前身ができて30周年とかで特集なんですが、その当時から関わっています。ただ関わってきただけでなく、一緒に立ち上げにほんの少しだけ協力したつもりです。その当時は、重度な障害を持っていても、一人の人として生活を築き上げることを夢見て、私達自身、主体となってやっていこうという意気込みを感じていました。私自身もその中で子どもを産み、子育ても明るく楽しくやってこれました。 
 私が書いてきた「えりとママの珍道中記」のえりも20代です。いつ大きくなったのかなと思います。そのかたわらで私は年をとっていきます。人生とはこんなものでしょうか。
平均的に普通の人の60代は、まだ若くて元気なはず。なのに今の私はなにもできません。素晴らしいほどできないことばかり。自分でできない、だからサポートしてもらったらいいんだけど、時間内で伝えることの難しさ。ともすれば、あきらめることも多い。自己意思で自己選択、自己決定するのも、今の私には力量不足を感じています。
こんなことばかり言うていると、上の方から、障害者運動に命をかけてきた人たちが、「あんた何言うてんのん!しっかりし!」という声が聞こえてきます。
 「どんなに重度になっても地域で人らしく生きたい。」今、公的介護保障がされていて自立しやすくなっているというものの、難しいこともあります。だからこそ、あの頃感じていた意気込みをもう一度感じて、頑張るのです。あとは工夫と情報収集かしら・・・。
なんにもできないと書きましたけど、生きて考えております。私の今の夢は旅行です。そこにつなげるために頑張るのです。そして、まだまだしたいことや、しなければならないことがあります。負けてなるものか!と頑張ります。行き先は楽しく明るく生きる、車いすのおばあちゃんを目指してGOです!
〈どんぐり さん〉

《投稿作品募集》   
CIL豊中通信では、みなさんからの投稿作品を募集しております。

◆俳句・短歌           
◆川柳                
◆コラム             
 400字から1200字
◆自立生活レポート        
 400字から1200字
◆大喜利             
《応募方法》      
郵送、FAX、メール、Twitterのいずれかの方法で、ご応募いただけます。
必要事項 ①お名前 ②ご連絡先 ③応募番号 ④投稿内容
※住所、電話・FAX番号、メールアドレスは「編集後記」のページ参照。
Twitterでの応募 CIL豊中のアカウントをフォローしていただき、ハッシュタグ(#シートヨ〔応募番号〕※俳句の場合は #シートヨ1 となります。)を付けてツイートしてください。【アカウント】@ciltoyonaka


運転免許取得 [極秘]プロジェクト
                        瀧本香織
                                  
 父に、車種については日産セレナにしようと思っていることを伝え、その年のバリアフリー展にジョイカーが展示されるのと担当者が来るので、父にも見てほしいので、一緒に行くことにしました。
 大阪南港のインテックス大阪に到着してすぐ、ジョイカーが展示されるブースへ向かいました。父が担当者を見つけるや否や「こいつにこんな大きな車、運転できない!デカすぎる!!」と言い切ってしまった。でも、担当者は父の勢い負けず、車の特徴を説明してくれました。が、父は日産セレナの車は大きすぎると言って話が進まないので、その車種を諦めました。日産セレナにこだわる必要がないと思い、一度原点に戻って思い返してみると、「私は車を運転したい」だった!!と気付き、担当者に日産セレナよりコンパクトで車いすを乗せることができて、運転席のジョイカーに改造できる車を教えてもらったあと、父からトヨタのシエンタを提案されました。
 後日談:バリアフリー展にジョイカーを見に父と行った時のこと。担当者が近づいてくる父を見て、〈強面の人が勢いよく近づいてくるなぁ~〉〈あの人でない方がいいなぁ~〉って思っていたそうです。そしたら私の父で、すごい勢いで話してきたというか、車がデカすぎると言って否定してきたのにはビックリされたそうです。
 父に提案されたシエンタで決めて、購入することにしました。私が車をシエンタに決める直前に父も同じシエンタを購入していましたので、私の担当も父と同じ人で話を進めていくことにしました。
 後日談:父の車(同じシエンタ)が納車された時、父が「イメージを掴むために乗ってみろよ」と言われたので、運転席に乗り込んだ様子を兄が不思議そうに見ていた。そして私に兄が「何でお前が運転席に乗るねん」と言ってきたから、「私も車の運転するよ」って言うと兄が「できるわけないやろ」と言ってきた。その後、父や父と兄と一緒に働いている事務員が、詳細を説明してくれた時の兄の顔が驚きすぎて、くわえていたタバコがほぼほぼ落ち掛けていた。その直後、兄が「お前の車には乗らんからな」と捨て台詞のように吐いた。

          
哲珍の部屋   「ジュネーブで発表を」②   

 昨年の夏にジュネーブで開かれた国連の対日審査に参加してきたウエダです。前回は、参加した経緯と、ジュネーブにたどり着いて準備万端なところまでお伝えした。

ジュネーブ2日目。議場へ入り、割り振られていた発言者席へ。日本の10団体の中の市民社会の一員として、国連の障害者権利委員18名に対して、ブリーフィングを事前に百回以上目通し読み直しをしていたから、自分の中ではスラスラスラと精魂込めて、聞き取りやすい口調で3分で、
「通知を撤回させるような勧告を出して。分離教育は進む一方だ。特別学級で週の半分以上を過ごす事を一方的に決め、障害児を普通学級から排除しようとしている。40年以上障害児教育を行ってきた大阪や豊中では、一緒に学び、共に成長する事を大切にし実践してきたが、文科省が出した通知には戸惑っている。健常児と一緒に成長してきた経験から、すべての子どもたちが一緒に過ごす事は大切だ」
というような事をお伝えできた。
その後、障害者権利委員会副委員長のラスカスさんと一緒に行った、他の教育団体に乗っかってロビー活動を行い、日本の障害児教育においての課題のやり取りが出来て困り事を伝える事が出来て、ミッションクリア。
 夜は、学識の人やら弁護士らと、ブリーフィングの発言に対する権利委員からの質問にどう答えていくかの話し合いも行われ、誰がどこを答えるかを綿密に。

ジュネーブ3日目。この日は翌々日のブリーフィングで返す質問に対しての回答作りを、部屋に篭って一日中。発言時間は1分なので更に言葉を削ったり縮めたりをzооmで日本とやりとりもしながら、分けたらあかんし通知は撤回でが含まれた文言を。書いて読んで計ってを何十回も繰り返し収まって良し。
ちなみに部屋での食事は、ハムとチーズとマカロニとパンを齧っておけという、父親の言いつけを鵜呑みにし、ミネラルウォーターよりもワインの方がお手頃な価格なので、赤と白を並べて流し込んだりと、ザ旅行者。

ジュネーブ4日目。この日は唯一夕方の会議まで何もない日。チャップリンが生前最期に住んでた家へ朝から行く事になり、滞在先から鉄道で1時間揺られてバスに乗り換え15分。日本人二人感がハンパなかったけど、映画の中の人が実際に生活を送っていたかと思うと何か不思議で。ノスタルジーな感じでいると、滞在先から会議をするので昼下がりには戻ってきてと連絡があり、「ここに来た理由は観光じゃない、通知の撤回を勧告にあげる事」と呪文のように唱えながら戻る事にした。ちょいと遅れて会議に入って、翌日の質疑について流れの確認を、もう一息でミッションは終わる。

ジュネーブ5日目。朝一ブリーフィング2日目の各々の団体が権利委員からの質問に返答を1分ずつで。更に「・・・通知を撤回させるような勧告を出して」を役割としてくどいぐらいに伝えて終了。終わって、タイの権利委員サオさんにロビー活動を。サオさんにも「・・・通知を撤回させるような勧告を出して」と伝えて、全てのミッションを終了。昼下がり、政府が権利委員会に対して条項に従った日本の状況説明を行う建設的対話1回目。厚労省の方が「入所施設からも桜の花が見えるからしんどくないですよ」に会場唖然と。外務省の方はめちゃめちゃ纏めようと頑張っていた。とはいえ当たり障りのないような発言ばかりだったような。

ジュネーブ6日目。朝一建設的対話2回目、この日の権利委員は子どもに対する質問ばかりで。文科省の特別支援教育課の山田課長も必死に発言してたものの、「日本では障害児は行きたい学校に行けますよ」等々、丸で出来ているかのような発言ばかりで、どの口が言うているのかと思う事たくさん。対話が終わり、退室しようとしていた山田課長に足を止めて頂き、427通知の事を話したけれど、「元に戻すだけです」の一点張りで残念だったけど、食い下がらず言ったので顔は覚えてもらえたかと。

ジュネーブ7日目。帰路だけど夕方の飛行機なので昼間はゆっくり過ごす。念願叶って朝マックを。サラダのレタスがしょうぼりしてた。駅に向かい駅チカを進むと怪しげな店を発見、そしてガン見。残りの時間はレマン湖の畔のカフェに。噴水眺めながらワインを片手に、優雅な時間を過ごしてやっとスイスを堪能し空港へ。そして日本へ帰国した。

 帰国後の話。総括所見は出たもののまだまだ課題満載で、書き足らない事が沢山ある。大臣の発言や山田さんとの再会や院内集会、文科省の警備員の対応やノダさんとシゲさんの話をタマキさんがとか。なので残りの話は次の機会に。
(上田哲郎)


ねや散歩  part.13
ねやたろう
 日頃から、周りの人に対面で話すことは何度かあったが、未だに文章ではSNSを含め、一度も書いていなかった出来事がある。それは、愛犬ハナの旅立ちである。21年10月7日午前2時35分頃、実家で飼っていた愛犬ハナが、老衰のため他界した。16歳8ヶ月であった。人間に置き換えると約95歳なので、大往生と言える。
 05年2月1日生まれ、柴犬の茶色。元は実家から徒歩2分の所にいた親戚の飼い犬で、生後1ヶ月だった3月16日に親戚宅にやってきた。それから7年、12年2月3日に親戚が他界し、ハナは飼い主不在の状態になってしまった。当初は高槻市内のとある知人宅に引き取られると聞いたので、「高槻まで足繫く通うことになるんやろうな」と思っていた。アパートで一人暮らしの私は、環境的にも生活リズム的にも飼うのは無理だったし、同じく母親も環境的・体力的に飼うのがキツいというのは充分解っていた。だから、私から「引き取ってくれ」とは敢えて頼まないと決めていたが、結果的には実家で引き取られることになった。母親が引き受けたからである。今思い返しても、この決断にはひたすら感謝しか無い。それから9年、私も充分には世話を出来なかったが、散歩やグルーミング、獣医に連れて行ったり、餌をやったり、ブラッシングをしたり・・・・。至福の時間であった。正月に実家に帰った時、ベッドに上がってきたハナに身体を寄せ、毛並みと体温を感じながら眠りに就いたのは、今でも頂点の思い出である。ハナが実家に居た期間は、私の人生に於ける、大きな曲がり角と重なっている。メンタルクリニックでの毎週のカウンセリングと、毎日の服薬(コンサータ、レキソタン)の力で、辛うじて仕事をこなしていた時代。ハナの存在が無かったら、私は命のことも含め、どうなっていたか判らない。
 21年10月6日夜、危機を察知していた私は、実家に泊まり込んだ。ハナの寝息を聞きつつ暫しまどろんでいた私は、夢にハナが出てきて突然目が覚めた。瞬間、異様な静けさを感じ、とっさにハナの身体に触れると、凄く温かかったが息をしていなかった。すぐに母を起こしたが、普段一緒に暮らしていなかった分、死に目に会えるとは思っていなかったから、会えたのは良かったと今でも思う。充分可愛がってきたので悔いは残らないが、当然ながら深く寂しい。そして私の心には「ありがとうの気持ち」という、枯れることのない花が咲き続ける。


☆☆☆サービスのご案内☆☆☆
                                  
ヘルパーステーションCIL豊中
訪問看護ステーションCIL豊中
TEL06(6840)8195 FAX06(6840)8196

障害者総合支援法介護サービス
   障害者総合支援法によるホームヘルパー、ガイドヘルパー派遣。
◇サービス提供範囲 豊中市及び近隣地域
◇サービス提供時間 24時間365日
介護保険訪問介護・総合事業訪問介護相当サービス  
 介護保険によるホームヘルパー派遣。           
◇サービス提供範囲 豊中市
◇サービス提供時間 24時間365日
介助サービス
 障害者(豊中市在住)の自立支援を目的とした、制度外サービス。
◇介助料
 【一般介助】1時間1,700円 【その他】旅行介助
  介助者にかかる交通費及び宿泊費等は利用者負担です。
◇キャンセル料 当日キャンセル半額 
※条件の合う登録介助者が見つからず、御希望にそえない場合があります。
訪問看護サービス
  看護師等が家庭に訪問し、在宅療養の支援をします(医療保険、介護保険)。
◇サービス提供範囲 豊中市及び近隣地域         
◇サービス提供時間 月曜~土曜9時~18時        

ボーイズ&ガールズ
TEL06(6843)5580 FAX06(6843)5590

重症心身障害児(者)多機能型通所事業所
 放課後等デイサービス・児童発達支援・生活介護
◇サービス提供範囲 豊中市及び近隣地域         
◇サービス提供時間 児童通所11:30~17:00 生活介護10:45~15:30        
  休み:日曜・木曜、祝日、年末年始
                    
少路障害者相談支援センター
TEL06(4866)5757 FAX06(6857)3602

 障害者・障害児やその家族等の相談支援を行います(無料)。
少路障害者相談支援センターは豊中市内の北中部を担当する障害者相談支援センターです(豊中市委託事業)。
北中部=上野坂、上野西1~3丁目・4丁目(1番~4番)、上野東、永楽荘、春日町、北緑丘、西緑丘、東豊中町、緑丘、向丘2・3丁目
                                  
豊中市障害者自立支援センター
TEL06(6857)3601 FAX06(6857)3602

自立生活体験室
 障害者の方が、自立生活を体験してみる部屋です(介助者の方は無料)。
◇宿泊利用 1泊1,500円 ◇デイ利用 1回(5時間まで)750円
計画相談支援・障害児相談支援・地域相談支援(無料)
 サービス等利用計画の作成、地域移行支援、地域定着支援等。
豊中市障害者外出支援サービス
 車いす対応車を運行し、一般交通の利用が困難な障害者の社会参加を支援。
◇利用対象者は、豊中市内に住所を有し、次のいずれかに該当する15歳以上65歳未満の人、概ね6歳以上15歳未満で車椅子使用の人、65歳以上で豊中市 高齢者外出支援サービスの対象にならない人です。原則在宅の方。
 ①身体障害者手帳1・2級(下肢、体幹、視覚、内部)を所持している人。
 ②療育手帳Aを所持している人。
 ③腎臓機能障害で透析治療を受けている人。
◇利用日時 午前9時から午後5時(年末年始12/29~1/3を除く)。
◇利用回数 月4回まで利用できます。
◇利 用 料 4㎞未満300円~20㎞以上2,500円
◇利用区域  豊中市及び隣接市(大阪市南部を除く)及び特定施設  
◇キャンセル料 現地キャンセル300円
点字名刺(送料は一律270円)
◇片面名刺印刷と点字打ち込みの場合      10枚400円
◇両面名刺印刷と点字打ち込みの場合      10枚500円
ロゴ・イラスト又は写真入りの場合は10枚につき50円の加算となります。


~各部門だより~                                                                            

ボーイズ & ガールズ
新型コロナの影響が残る中、以前は自粛していた図書館に行ったり、買い物やリサイクルなどの屋外活動を少しずつ再開できました。新規の利用者様がデイに来てくれるようになったことに加え、利用者様同士で世話を焼く姿、協力し合う姿がたくさん見られた素敵な一年でした。中々以前のような生活を送ることは厳しいですが、少しでもデイに来て楽しかったと感じられるような活動を提供できるように頑張ります。
ヘルパーステーション
新型コロナ騒動も4年目に突入です。政府は5月を目途に、感染症法上の位置づけを2類から5類に変更する方針を決めました。3年以上顔の半分を覆い隠す外出に慣れると、鏡を見ながら「あー…まあ、マスクするからいいか」など、都合よく利用していた面もあると思います。マスク無しの状態は、見せてはいけないものをさらけ出している様な恥ずかしさを覚えるかもしれません。介護の業界は、マスクを外す事は一回りも後になると思いますが、マスクがない毎日が早く来ることを祈るばかりです。
訪問看護ステーション
スタッフの顔ぶれは変わりないので、新年を迎え、必然的に平均年齢が上がったことは言うまでもありません。事務所の話題も、健康や体力面を気遣う言葉かけが自然と増えています(笑)。これから先もお世話になる身体を大切にしながら、貯筋を心掛け、今年も頑張っていきます!!
事務局
10年に一度の強烈寒波でしたね。事務所の熱帯魚は寒さで仮死状態でしたが、ヒーターの温度が上がると復活してホッとしました。元気といえば事務所の観葉植物たちです。一番古いブラッサイアは130cm超になって面談室に。B&G開所時にお祝いでいただいたパキラは天井まで大きくなった葉を何度も切って、今も葉っぱがワサワサしています。ヘルパーさんにいただいたサンスベリアとベンジャミンは、それぞれ色んな人のお家に貰われていきました。
支援センター
先日、豊中市は障害者相談支援センターの愛称を「よっと」に決定しました。可愛い愛称ですね。この流れでゆるキャラなんかも決まっていくのかなと密かに期待しています。愛称っていいですね。支援センターも、何か可愛らしい愛称を付けたいものです。


編集後記
編集長 根箭太郎

 今年の冬は、大寒波も襲来して大変でしたね。冬嫌いの私にとっては、天敵以外の何者でもありませんでした。
 さて、今回の広報誌。表紙を一目見た瞬間、「うん!?」と思われた方もいるかも知れません。「急に写真も白黒になって、えらいシンプルやなぁ」と。表紙の右下に書かれている通り、これは創刊号の復刻版なのです。もし「懐かしい!」と感じた方がおられたら、その方は21年来の読者という事になります!いや~、感謝・感謝。
 特集前文でも述べた様に、22年度は、CIL豊中通信創刊20周年、通巻60号、さらにはCIL豊中設立30周年、法人化20周年という、多重節目の年となりました。それを記念して、今回は一部OBも含めた多くの職員に、思いやエピソードを語ってもらいました。正直、どうまとめるか試行錯誤だったし、何とか仕上げられてホッとしています。まだまだ誌面で語り尽くせない部分はあり、CIL豊中通信も進化を続けなければなりません。
 これからも皆さんの役に立ち、存在価値が認められる通信を目指して、編集員一同、努力して参ります。どうかよろしくお願い致します。
 来たる2023年度、コロナ禍の状況が一層改善されて、長らく中止になっていた当法人主催行事が、復活することを期待したいです。もうコロナ禍になって4年目に入りましたね。ここまで長い期間、私たちは色々な不自由をよく辛抱しました。

編集人 NPO法人CIL豊中   
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H  P: http://www.ciltoyonaka.com/
Twitter: @ciltoyonaka  
Email: ziritsu@ciltoyonaka.com
TEL 06(6857)3601  
FAX 06(6857)3602

発行人 関西障害者定期刊行物協会
  大阪市天王寺区真田山町2の2 
 東興ビル4階   定価100円